“古代日本最大の内乱”として知られる「壬申の乱」(672年)で、決戦地となったのが箸墓と村屋社の周辺でした。いずれも大和三道に沿った場所で、その戦略的な重要性を象徴しているといえそうです。
村屋社のご祭神「村屋神」については、神官に神懸って、「わが社の中の道から軍勢がくる。社の道を防げ」と、大海方へ神託をしたとの記事が『日本書紀』に見えます。奈良県遺跡地図webでアップにすると、確かに境内周辺を中ツ道が通っているようです。
お馴染みの1948年米軍航空写真で見ても、位置関係ははっきりと分かります。
航空写真でみえる南方の痕跡は、舗装されているところもありますが、水田の中に広めのあぜ道として続いていました。キレイに条理地割が残っていてますね。
さて、これからは、かなりマニアックなお話しです(笑)。
「村屋神」を祀っているとする神社は二社あります。
一つは、「村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)」で、主祭神は大物主の后神・三穂津姫命です。このため、前回取り上げた大神神社の別宮ともされています。
もう一つは、「村屋神社」です。主祭神は、経津主(フツヌシ)・武甕槌(タケミカヅチ)。東国の平定神二柱が揃い踏みで、大海方を護った武神のイメージにはピッタリです。だだし、南北朝時代に兵火にあうまでは、200m東の初瀬川対岸にあったと伝えられています。
さて、皆さんはどちらだと思われますか? 宮司さんもお悩みのご様子。
答えは、神のみぞ知る?(笑)
中ツ道の想定路ですが、奈良県遺跡地図webにある経路より40mぐらい西の村屋神社の参道を通ってるようです。奈良県遺跡地図webも檪本などの発掘を受けてか、北部の方は修正しているようですが、南部はそのままになってるようです。WEBの地図の想定路を北(平城京)から見ると途中に段差があります。実際、赤線の経路線上のY字路の家で発掘が行われていますが、なにも出ていません。
歴史知識がない、古街道にロマンを感ずる後期高齢者です。是非見学させて下さい。