『出雲風土記』によると、十字街は隠岐国へ向かう山陰道支線「枉北道(きたにまがれるみち)」が北上していました。

そして、「北に去くこと四里二百六十六歩(約2,138m)して、郡の北の堺なる朝酌渡(あさくみのわたり)に至る」と書かれています。
十字街を中心に半径約2,138mの円(オレンジ線)を描くと、確かに大橋川右岸でぶつかります。正確ですね!

ここはかつて、井の奥渡しがあった場所です。中海へ注ぐ河口が広がる手前であり川幅が狭く、渡河の好適地であったようですね。当ブログではここを、「朝酌渡」と仮定します。
河口の中海大橋から見た現地です。大橋川に浮かぶ塩楯島(左)の奥が渡河点です。

渡河先を北西に進むと、魚見塚遺跡で道路側溝や波板状凹凸面が発見され、枉北道であると考えられています。
現道を含めた切通しの下端幅は約7.5mで、9m幅の山陰道と比べてやや狭いようです。
下の写真では遺構は埋め戻されていますが、延長線上に茶臼山が見えますね。

なお、このまま南下すると、井の奥渡しの西に矢田渡しがあり、現在でも渡船が営業しています。
現地を訪れた日は休日で動いておらず、対岸までグルっと往復15㎞歩く羽目になりました(苦笑)。

◆
さて、ここからが問題です! 朝酌渡から十字街まで、道路痕跡は存在するのでしょうか?
バイブル『地図でみる西日本の古代』によれば、このようなルートが想定されています。諸説ある中でも有力視されているようです。

実は南半については現踏してみました(笑)。



以上のような様子で、官道としては道幅が物足りないように感じました。先ほどの魚見塚遺跡の切通しが約7.5mあったのと比べると、これは違うかなぁ、というのが私の結論です。
以 上