現地レポート

常陸国の古代駅路 【新治郡編】③未登録の前方後円墳を発見?! 下野・常陸連絡路の推定ルートと古墳群、そして大神台には何が?

信濃から上野へとほぼ一文字に東進した東山道駅路は、下野国府を過ぎると、陸奥を目指して北上します。ここで分岐し、常陸を横断して東海道駅路へ合流していたと考えられているのが、下野・常陸連絡路です。

県教委報告書により、筑西市小栗から盆地中央を経て、鋤柄(すきがら)峠へ抜ける推定ルートが、クリアに復元されました。同報告書は大神駅を笠間市大郷戸に比定していますから、木下良氏説の桜川市平沢は通っていません。

駅家比定地の問題はさておき、直線的なその姿は説得力があります。特に、盆地中央の独立丘陵をターゲットに真っ直ぐ進み、麓を掠めて転向し、今度は峠を目指して進んでいくところは、実に官道らしいラインです。

ここで注目したいのは、丘陵上の前方後円墳「長辺寺古墳」です。墳長約120mと県内有数の規模で、築造当時(4-5世紀)は盆地のどこからも見える“陸の灯台”のようだったと想像されます。明らかに駅路が景観に配慮し、地域の主要な古墳の横を通るケースはよくあります。丘陵斜面がきれいに均されているように感じるのは気のせいでしょうか。

なお、北には県内最古級(4世紀)の前方後円墳・狐塚古墳がありましたが湮滅。

長辺寺古墳と連絡路

丘陵部の推定ルート上に、切通し痕跡が残っていないか現地探索してきました。結果、舗装道脇に廃道の凹道を見つけました。ただし、写真のような様子で、駅路痕跡というにはサイズが狭いように感じました。

長辺寺古墳南方の古道痕跡

明治から昭和にかけての旧版地図と比較すると、何度も道が付け替えられているようですから、後世の改変の結果かもしれません。下図は明治38年測図のもの。なお、水色線は昭和以降の地図にみえ、現在も残る旧道。

長辺寺古墳と連絡路(明治)
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成

さて、このブログでは、航空レーザー測量のデータを活用した微地形の可視化をセールスポイントにしていますが、今回、もしかしたら未登録の前方後円墳2基を見つけたかもしれません。いつもお世話になっている「いばらきデジタルマップ」にも載っていません。

蓬田の前方後円墳群?

特に南のものは、かなり明瞭に見て取れます。なにかご存知の方がおられましたら、こっそり教えて頂きたく(笑)。

以上見てきた通り、古墳群との位置関係からも、同書の推定ルートは蓋然性が高いように感じます。となると、小栗道との官道交差点に未知の駅家があり、30里(約16km)離れた笠間市大郷戸に大神駅があったという説が有力ということになりますね。

桜川市平沢の大神台には何があったのでしょうか? 大胆に想像を膨らませると、蝦夷征討の兵站路として、倉庫群を備えた郡家別院のような施設があったのかもしれません。例えば、那須烏山市の馬屋久保遺跡のような。さらに、「衛門台」地名から察するに軍事拠点としての役割も併せ持っていたかも。ロマンですねぇ・・・(笑)。

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