五万堀古道のラインを南に辿る
まずは、五万堀古道遺跡の周辺を調べてみましょう。最初の作業は古代東海道遺構の中軸線”センターライン”を可能な限り正確にカシミール3Ⅾ上に写し取ることです。
本ブログがあるのはカシミール3Ⅾのおかげです!
有難いことに発掘調査報告書が奈良文化財研究所が運営するwebサイト「全国遺跡報告総覧」で閲覧可能です。以前は地元図書館や博物館などで閲覧するしかなかったものです。時代の進歩に感謝!
下のような遺構の平面図も参考にして、慎重に位置を確認します。全長280mの遺跡をⅠ~Ⅲ区まで三等分して調査しています。
写し取ったラインを南北に延長したのが下の3Ⅾ地図です。北から東へ約35度傾いたこのラインを「想定ルート」として痕跡探しの手掛かりとしていきます。
明治時代の旧版地図「迅速測図」に切り替えると、近代以前の様子を知ることができます。
涸沼川氾濫原への出口にある切通しがこの頃も存在していたことが分かります。想定ルートと完全に一致していますし、元々は駅路の切通しだったとようですね。
下が現地。直線的な駅路に対して車道はゆるくカーブしていますので、路肩部分に余地が出来てます。これも立派な痕跡地形です。
航空写真で旧地割を探す
さて、この先、涸沼川氾濫原に下りると、区画整理によって手掛かりが消えます。迅速測図にも何も描かれていませんでした。
そういう時に活躍するのが航空写真です。これは1961年撮影のもの。切通しの南の田圃に気になる地割が見えますね!
アップにしてみると想定ルートに並行して緑の線が浮き出て見えます。この二本の幅はちょうど1町(約109m)。なんと、条理地割の痕跡だったのです!
想定ルートと条理線の間は13-4mの隙間があります。もしかしたら、駅路の道路敷「条理余剰帯」があったのかもしれません。
いずれにせよ駅路と条理が一体で整備されたことが分かりますね。
駅路と条理の関係まで分かる五万堀古道遺跡はスゴイ!
なぜここだけ条理地割が残ったのでしょう? 答えは「直線道が残っていたから」のようです。実は貞享3年(1686年)に江戸幕府評定所が村境などを裁定した絵図が残っており、ほぼ想定ルートに沿った直線道路が描かれているそうです。
下は想定ルート上の涸沼川南岸から切通しを眺めたところです。一直線にこちらへ伸びてくる駅路の姿が目に浮かぶようではありませんか?
つづく