今度は、十字街を南に下り、国庁を訪ねてみましょう。
下の3D地図でご覧の通り、200mほどで遺跡公園に到着します。南を流れるのは意宇川です。
案内板の着色されたところが、発掘調査済みで公園化されているエリアです。
後方官衙跡を南側から見たところです。後ろに茶臼山がどっしりと構えています。
次に政庁後殿です。案内板に「重要な儀式が行われていた場所」とありました。
後ろに見えていたのは六所神社。出雲国総社です。全国的に国庁跡に神社が建てられている例は多くみられます。
訪れたとき、ちょうど東脇殿周辺で発掘調査が行われていました。報道によれば新たな柱穴列が見つかったようですが・・・。
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さて、国庁は南を向いて建てられていますが、北を走る山陰道とはどのように接続していたのでしょうか?
これまで見つかった道路遺構の一部と見られる溝跡などから、国庁進入路は東側を通っていたと考えられています。下の青色の点線が推定ルートです。
(島根県教育委員会「風土記の丘地内遺跡発掘調査報告書22 史跡出雲国府跡- 9 総括編-」2013年による)
この国庁進入路、ほぼ正方位(N-1°-E)で条理方格とはかなりズレています。山陽道駅路の走行方向ではなく、国府域の建物の方位に影響されている訳です。
そして、実はかつて、国分寺跡からも同じようなほぼ正方位の道が駅路へ伸びていたのです。”天平古道”と命名されていて、石畳&瓦敷きの古道遺構が三軒家集落まで確認されています。未確認ながらその南にも伸びていた可能性が指摘されています。
駅路と条理、国府と国分寺との接続路が織りなす古代景観が浮かび上がってきませんか?
以 上