6世紀に入ると墳丘の小型化と横穴式石室の導入が全国に広がります。石室は墳丘とは逆に、巨石の使用や長大化が進んだようです。
なんといって有名なのは、蘇我馬子の墳墓といわれる石舞台古墳でしょう。特に60t以上あるという二つの天井石は圧巻です。
ところが、石室の全長でこれを凌ぐのが、総社市のこうもり塚古墳です。つまり、規模では大王墓クラスということになります。
入口から羨道を進むと、石棺が収められた玄室との境で、天井石が一段落低く架けられているいるのが分かります。和室の鴨井のような構造で、吉備特有のものだそう。
三面図でご覧になると構造がよく分かると思います。
玄室には、石棺が一つ残されています。突き当りの壁に大きな一枚岩を使うのが吉備風だそうです。
被葬者は単に吉備の有力首長である以上に、その盟主としてヤマト王権でも高い地位にあったものと推測されています。
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ここで労作のランキング表をご覧ください。天皇陵に治定された大王墓など未発掘のものが多数あるのは目をつぶって下さい(笑)。
実は、石舞台に並ぶ石室長の箭田大塚古墳も、吉備にあります。未訪問なのですが、三面図をご覧頂くと、確かにこうもり塚の系譜に連なる構造だと分かります。
ここまでお読み頂くと、雄略期以降の吉備の衰退、という定説が、どうやらあやしいということはご理解頂けたと思います。
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さて、蛇足とは知りながら、おまけの3D地図です。
ご覧頂いたように、陰宅風水における「乳穴形」の地形に見事に合致しています。龍穴に墓地を作ると優秀な子孫に恵まれるそうですから、これが吉備繁栄のヒミツかも!(笑)
飛鳥の終末期古墳までまだ半世紀ほど早いですが、先駆けて吉備が導入していた可能性は高いものと、一人で納得しております。
つづく