現地レポート

【吉備国特集】7.吉備と出雲、大和を繋ぐ特殊器台。そして、前方後円墳の誕生

前方後円墳の源流の一つは吉備にあり、ヤマト王権の成立にも吉備が深く関わった—————。地元研究者を中心に語られている興味深い仮説です。

その出発点となるのが、倉敷市の楯築遺跡。全国最大の弥生墳丘墓として知られています。

開発により大きく地形が変わっていますが、“日本のストーンヘンジ”とも呼ばれる5つの立石群は往時のままです。

楯築弥生墳丘墓

発掘調査の結果、円丘部径は40m、南北突出部を加えると約80mの双方中円墳型とわかりました。

楯築弥生墳丘墓の測量図
楯築弥生墳丘墓の測量図
福本明『吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓』2007年

公園の収蔵庫では、国重文の弧帯文石を覗き見ることが出来ます。

人の顔を帯でグルグルと巻いたような呪術的な文様が特徴です。かつて墳頂にあった神社の御神体として受け継がれてきました。

発掘で、小型の弧帯文石が墳頂部から砕かれた状態で見つかり、特別な祭具であることが分かりました。

この文様、南洋に生息する巻貝・ゴホウラ(護宝螺)の横断面からデザインされたという説が有力です。木の年輪のような成長線があるそうで、独特のカーブを描いた線の原型となったと見られます。

ゴホウラとその横断図
ゴホウラとその横断図
樋口達也『護宝螺と直弧文・巴文』2004年
ゴホウラを源流とする文様
ゴホウラを源流とする文様
樋口達也『護宝螺と直弧文・巴文』2004年

各地の弥生時代遺跡から、研磨によって腕輪に加工されたものが出土しています。なんらかの呪術的な意味合いがあったようです。

ただし、大陸から伝わった王の紋章たる龍が、簡略化されS字型の線画にデザイン化されたとお考えの専門家もおられます。

さて、前方後円墳の誕生を考える上で、重要となる出土品が、特殊器台と特殊壺です。葬送儀礼のために特別に作られた儀器とみられ、孤帯文と同系統と見られる文様が刻まれています。

この時代の吉備地方で生まれ、形式が変遷しながら、墳丘墓で広く使用されていたと考えられ、後世には円筒埴輪へ変化発展を遂げました。

特殊器台・特殊壺の変遷
特殊器台・特殊壺の変遷
福本明『吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓』2007年

吉備以外でも出土例があり、一つが出雲市の西谷三号弥生墳丘墓です。楯築と同時期の立坂型で、吉備で制作されたものが運ばれたと見られています。

吉備と出雲の首長の間で、婚姻関係や擬制的な同祖同族関係といったような祭祀同盟ともいえる強い結びつきがあったことを示しています。ただし、墳丘の形は別々のままで、出雲は四隅突出型を作り続けます。

ここからが、ややショッキングです(笑)。

特殊器台が、あの箸墓古墳で見つかったのです。後円部に宮山型、前方部に都月型が使われていました。

箸墓古墳

大王の葬送というおそらくは最重要の祭儀に、吉備の文化を受けいれていた訳です。

特殊器台は他にも、西殿塚、弁天塚、中山大塚の3古墳で見つかっています

このことから、箸墓古墳が築造される3C末の段階で、吉備と大和の間に、出雲同様の祭祀同盟が結ばれていたのではないか、と考える研究者もおられます。

結論としては、初期ヤマト王権は「キビ主導の政治・祭祀体制」として誕生したということになるそう(石野博信「早期古墳と葬儀用器台」『京都府埋蔵文化財論集 第6集』2010年)。

そして当然ながら、前方後円墳は楯築を源流として生まれたもの、というのが前提です。

なんだか突飛な説に見えてしまうかもしれません。でも、弧帯文を有する祭具が、ヤマト王権の“王都”ともいわれる纏向遺跡で、相次いで発見されているとしたらどうでしょうか?

初期ヤマト王権が吉備主導であった、というような説は、決して異端ではありません。

「吉備における備中の大首長がその絶大な呪術性によって諸族の中枢の地位に擁立推戴され、大和に移動・進出した・・・。その死に際して奈良平野の南東の地に前方後円墳をつくり、宮山型特殊器台と特殊壺をもって前方後円墳祭祀を創始した・・・」。

岡山大学教授として戦後考古学をけん引した故・近藤義郎氏は、前方後円墳の誕生について、このような仮説をお持ちだったようです(福本明『吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓』2007年)。

元岡山大学教授で国立歴史民俗博物館教授の松木武彦氏も、慎重に言葉を選びながらも、「3世紀後半の古墳時代初期の吉備最高の長が、畿内各地の有力な長たちとともに、大和東南部のいずれかの大型古墳に葬られている可能性は、けっして低くはないだろう」とされています(松木、2011年)。

2Cに楯築を築いた足守川・高梁川流域の吉備西部において、なぜか、4C前半の中山茶臼山古墳まで、吉備東部に比して墳墓の築造が低調となるのだそうです。

また、前方後円墳を構成する属性の内、主要部分が吉備など瀬戸内地域の首長墓に由来することを指摘したのが、寺沢薫・纏向学研究センター長(元・奈良県立橿原考古学研究所調査研究部長)です。

前方後円墳諸属性の系譜と変遷
前方後円墳諸属性の系譜と変遷
寺沢薫『王権と都市の形成史論』2011年

このことから寺沢氏は、初期ヤマト王権について、北九州や吉備、出雲、大和など、「西日本各地の部族的国家の結集による連合政権」であり、「成立時のキャスティングボードを握ったのは吉備ではなかったのか」とされています(寺沢薫『王権と都市の形成史論』2011年)。

4C半ば以降に築造された大王墓からは、特殊器台は見つからなくなります。前方後円墳と円筒埴輪というヤマト王権が確立した新しいスタイルが、全国に波及していくことになります。

振り返ってみれば、5C前半の造山古墳に畿内の技術・デザインが用いられていたのは象徴的でありました。

律令国家時代に入ると吉備は4か国に分割され、中央の支配を受けることになります。かつての中心地であった備中国では、造山・作山・こうもり塚古墳の近くに駅路が敷設され、国府や国分寺・国分尼寺が築かれます。

駅路を往来した古代の人々は、どんな思いで、往古の王たちの奥津城を見上げたのでしょうか?

終わり

POSTED COMMENT

  1. 宮田太郎 より:

    弧帯紋の複雑さは、他の勢力(連合体以外)に真似の出来ない共通標識のデザインとして3C末に採用されたと考えると、初期連合体の容員である証になったんでしょうね。金属器の刻印などとしても見つかっているのでしょうか。

    • isana より:

      弧帯文の呪術的な雰囲気のあるデザインは強烈な印象がありますよね! 同じ南洋貝のモチーフが特殊器台に使われ、古墳時代に入ると円筒埴輪の△とか〇の穴にシンボライズされていく訳です。こうしてみると吉備独自の呪術的デザインが、簡略化された上でヤマト王権の一員である証として全国に広まった、と見ることもできますね!

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