現地レポート

吉備路古代紀行 ①条理地割に導かれ山陽道を東へ

岡山県中部の総社市は、古代備中国の中心地。国府や国分寺、国分尼寺が置かれ、宮都と大宰府を繋ぐ山陽道が走っていました。

歴史ファンならずとも、昔話の桃太郎のモデルとなった吉備津彦命と鬼・温羅(うら)の伝説の地と言えばご存じではないでしょうか。

本シリーズは、豊かな歴史を持つこの地を出発し、岡山市北区の吉備津神社まで、約11㎞にわたり、古代駅路の痕跡を辿ります。

古代の吉備国の地形と遺跡
近江俊秀『古代道路の謎 奈良時代の巨大国家プロジェクト』祥伝社新書 2013年より

なお、遺跡分布などから推定すると、下図の濃紺エリアは、「吉備穴海」と呼ばれた古代の内海であったようです。

JR伯備線の清音駅を降り、田園風景の中を北に向かうとほどなく、賑やかな車道に突き当たります。県道270号線、通称:山陽道で、駅路(青線)をほぼ踏襲していると考えられています。

総社市の航空写真 最新

では、歴史地理学の手法を使って、チェックしてみましょう。

まずは西側から。1961年の航空写真で、高梁川を挟んだ同市真備町に残る条理地割をご覧ください。一町(約109m)方格の区割の中に、古代駅路の敷地が約20mの幅で伸びていることとが分かります。条理余剰帯、または道代と呼ばれています。

総社市吉備町の航空写真 1961年
総社市吉備町の航空写真 1961年

次に東側。同じく1961年の写真で見ると、丘陵部にぶつかった後、切通状に上っていく坂道があり、駅路の痕跡地形と考えられます。

MCG666X-C1-2 19670302 総社市 マーク入り
MCG666X-C1-2 19670302 総社市

興味深いことに、1970年頃に工事が行われ、現在ではこちらがメーンの道路となっています。何かの都合で南側へ膨らむう回路が使われていたが、自動車の時代になってショートカットできる古代のルートが復活したということになります。

持坂西3D

さて、最後のチェック項目です。この区間で条理余剰帯を探してみましょう。

実は高梁川東岸は、水害に見舞われてきたエリアらしく、条理地割もかく乱が激しく、持坂手前にわずかに残すのみです。

持坂西の条理余剰帯 1961写真

それでも、辛うじて、二列ほど確認でき、余剰帯も推定できます。推定されるルートは青線の通り。

以上、3点を総合すると、どうやら当初の推定は正しいようですね。

今度は景色を楽しみながら、おさらいしてみましょう。

ますは、人生初の山陽道とのご対面。わずかなうねりがありますが、期待が高まります。

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後ろを振り返ると、すぐに高梁川の堤防にぶつかってT字交差点となっています。古代にはここが渡河地点だった訳です。

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戻って東に進むと、持坂の丘陵が近づいてきます。低い地点に向かって、一直線に進む姿は、古代駅路そのものでありました。

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いよいよカーブ区間に入ると、路側に帯状の空き地が。

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その先には、思わせぶりな土塁状の高まりが。

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典型的な駅路痕跡なのですが、精密な想定ルート比較が出来ず、残念ながら確認できません。

今回はここまで。峠を越えた先にはどんな景色が待っているのでしょうか。

つづく

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