持坂を上りきると、備中国の中心地であった平野部の景色が開けます。古代山陽道はここで西に方向を転じ、ほぼ一直線に国分寺へと進みます。バイブル『地図でみる西日本の古代』でご覧下さい。
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島方洸一 企画・編集統括『地図でみる西日本の古代 律令制下の陸海交通・条里・史跡』平凡社 2009年
「ほぼ」と条件を付けるのがマニアのこだわりです(笑)。実は一ヶ所だけ屈曲点があるのです。
1961年の航空写真で条理地割をご覧下さい。持坂の東側と異なり、氾濫による後世のかく乱が少なかったようで、ビシッと碁盤目状の土地区割が残っています。
ところが、持坂のすぐ西側で、微妙に方位の異なる区画(黄線)があるのです。ということは、地割の基準線である駅路もこれに沿って走っていたはずでが、山田池という大きな溜池にぶつかってしまいます。
旧地形はどうなっていたのでしょうか。冒頭の明治時代の旧版地図をアップで見てみましょう。
池のサイズは現在よりずいぶんと小さかったようです。また、旧道は想定通り、少しだけ屈折していたことも確認できますね。
わずかな区間でも条理地割と駅路の走行方向をピッタリと揃えようという、古代の設計者のこだわりに感服です。
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さて、薀蓄はこの位にして、実際に歩いてみましょう!
持坂を進むと、「旧山陽道」の看板が見えてきます。右手に見えるのが山田池です。といことは、古代にはもっと手前から右折していたことになります。
古い町並みを進み、屈曲点を過ぎると、はるか前方の備中国分寺の五重塔が見えます。小さくてすみません。
付近の案内板を見ると、近世の山陽道が紹介されています。ずいぶんと南に迂回しています。おそらく集落を経由するルートを選んだのでしょう。
全国9位の全長を持つ作山古墳を過ぎた辺りから、自転車専用道路と合流しますが、これ築堤痕跡のようです。
ご覧のとおり、土塁状の高まりを利用して用水路が通っています。駅路の側溝を用水路に転用したケースは、例えば群馬県伊勢崎市でもありました。
この先は築堤痕跡は消えますが、まっすぐに国分寺へと道は続きます。
さて、次回は国分寺前の不思議な地形についてご紹介します。
つづく