大甕神社の西にも東海道駅路の痕跡はあるのか?、というのが今回のテーマ。
古地図に川だけ地形図を重ねた地図に再登場頂きます。
やや上下に振れますが、直線的な道路が伸びているのが見えます。ですが、どれだけ古くまで遡れるか、が問題ですよね。
そこで、「石名坂(いわなさか)」という地名にご注目! 平安時代末に陸奥へ旅した西行が歌に詠んでいる由緒ある地名なのです。
「世の人の 寝覚めせよとて 千鳥なく 名坂の里の 近き浜辺に」
現代の石名坂の入り口脇に歌碑が立っております。
西行に関係する碑が日立市内には複数あり、この元・東海道を通った可能性が高いと考えられています。
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ダメ押しにもう一つ(笑)。それは道脇のこの榎の木です。
由緒はこちらをご覧ください。なお、この72年に一度の例祭は平安時代末に始まったとされています。
ということで、この道が平安時代末=12C末に存在した古道であり、位置的に元・東海道であろう、という状況証拠はあります。
これより北方の日立市十王町で発掘確認されている藻島駅と見られる遺跡では、10C中頃まで遡れる駅路痕跡が見つかっています。
ブログ主としては、東海道駅路を踏襲した可能性が高いと考えます。
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では、いつもの方法論で現地踏査をしてみましょう! 大甕神社周辺からスタートです。青線が想定ルートです。
さっそく気になるのが、道路脇のこの不自然な帯状地割。
東端部から西を見た写真がこれ。
帯状地割の中は混とんとした雑木林です。
西端部から振り返ったところがこれ。
おそらく公図上の赤地(国有地)で、長細く使いにくいため放置されたのでしょう。
つまりは、典型的な道路痕跡です。
この先にはこんな場所もあります。東を向いています。
こんな道標があるところからも、国道6号敷設以前の旧道はこちらのようです。
Google Earthだと少し古い写真のようですが、この通りです。
西に進みましょう。石名坂の切通しはこの通りのV字に開けた地形で、北端部を現道が使用しているようです。
米軍航空写真で見ると、三角形に窪んだ地形が見えますね。
現在では切通しの中央は住宅が立ち並び、掘り下げられた車道で往時を想像するのは困難です。
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これより西側にもほぼ直線の古い道があります。ここを駅路が進んだと仮定すると、途中に「往還向」という地名があるのが気になります。
こうした手掛かりから、このブログでは、下の3D地図のような渡河ルートを想定します。ちなみに赤線は条理地割です。
実は、県教委の推定ルートともろダブりなんですけど(笑)。(茨城県教育委員会 2015年『茨城県歴史の道調査事業報告書古代編 古代東海道と古代の道』より)
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ということで、俯瞰してみた場合、大甕神社近くを屈曲点として、下のような駅路ルートを想定しています。
改めて見てみると、前期駅路らしい、きわめて無理のない折れ線グラフのようなラインです。
久慈川渡河点については諸説ありますが、当ブログではこれにてファイナルアンサーといたします!(笑)
大甕神社を起点とした今回の探索はこれにて終了です。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。