現地レポート

東北の古代城柵を訪ねて ①東北地方の行政・軍事の中心にあった陸奥国府・多賀城

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多賀城の造営が始まったのは、出土木簡から養老5年(721)頃と分かっています。これは前年に起きた初の蝦夷の大規模反乱が終結した直後のことでした。

この反乱では、按察使(中央派遣の地方行政の監督官)上毛野広人が殺害され、宮城県大崎市の二つの官衙遺跡が火災によって廃絶しています。記録が乏しいのですが、征討軍が派遣され鎮定したようです。

舞台となった大崎平野(仙北平野南部)ではそれまでに、
丹取郡など数郡が新設されていました。

霊亀元年(715)には坂東諸国からの富民1,000戸の大規模移民も行われていました。

養老4年(720)の反乱はこうした律令国家の版図拡大政策に対し、蝦夷が敢然と抵抗の意思を示したものでした。

多賀城は神亀元年(724)に完成しましたが同年、さらに海道蝦夷(北上下流域)が反乱を起こし、大掾(国司の第三等官)が殺害されました。今回も征討軍が派遣され鎮定したようです。

また前振りが長くなってすみません(笑)。

これからご紹介する多賀城址が、通常の国府とは大きく異なる姿である歴史的背景をご理解頂きたかったのです。

さて、蝦夷反乱が起きる以前の時代、陸奥国府はどこに置かれていたのでしょうか?

仙台市太白区の郡山遺跡がそれだと考えられています。北に広瀬川、南に名取川が流れる自然堤防・背後地が選ばれています。湊の設置に都合の良い水運の好適地であることは一目瞭然ですね。東山道は東側の丘陵沿いを通過していました。

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時代によって二期に分かれ、正方位に南面して官衙が建て直されたⅡ期(7C末~)に国府が置かれていたと考えられるようになってきています。

官衙全体は三重の施設で区画。一番内側は東西約330m、南北約420mとほぼ正方形で材木塀(地上高約3m)となっています。この外に二重の大溝が巡っています。(下図は、仙台市教育委員会『仙台市文化財調査報告書 郡山遺跡37』2017年より

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サイズは四分の一ですが施設の構成は、藤原京によく似ているそうです。興味深いのは、方形石組池や石敷広場が設けられ、蝦夷を饗応していたと思われることです。

律令国家が積極的に版図拡大に乗り出すのは、元明天皇による和銅元年(708)の平城遷都詔以降。それまでの安定期の雰囲気を郡山遺跡は教えてくれます。

お待たせしました! いよいよ多賀城の登場です(笑)

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半島状に湿地帯に突き出した低丘陵上に位置し、築地塀や材木塀からなる外郭施設を持っていました。

蝦夷反乱によって平地の官衙が焼き討ちされた経験が影響していることが窺えますね。

でもそれだけではありません。版図拡大のための行政・軍事の拠点として、地理的に重要なポイントを占めていました。

①穀倉地帯である鳴瀬川沿いの大崎平野(仙北平野南方)と宮城野海岸平野の中間に位置すること。

②東方に物資の輸送・集積に便利な国府津(塩竃市香津町)があること。

③旧北上川や鳴瀬川を遡れば仙北平野にアクセスが容易であること。

こうしてみると選ばれるべくして選ばれた場所、と言えそうですね。

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いよいよ城址探索です! まずは概観から。(下の二図は、進藤秋輝『古代東北統治の拠点 多賀城』2010年より

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一辺900m前後の歪んだ方形の外郭線の中央に、約100m四方の政庁が位置しています。

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1/1000スケールの模型でもご覧ください。

政庁からは南北大路が伸びており、東山道から別れた東西大路と接続していました。

東西大路は幅約12mで側溝付き、駅路の幅と同じです。

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では、大路交差点から歩き始めましょう。

南北大路に沿って復元された遊歩道を進み始めると、右手に漏刻(水時計)のモニュメントが建っています。

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漏刻というと明日香村の水落遺跡でみつかった遺構が有名ですよね。

律令国家が蝦夷と38年戦争に入った宝亀5年(774)に、多賀城にも設置されています。

陸奥国からの上奏文には、「駅馬を使った緊急連絡では時刻を記入しなければならないはずですから、大宰府のように漏刻を設置させて下さい(超訳)」とあったそうです。

さらに進んでいくと赤いマーク線が。ここでは橋脚が出土していて東西に流れる川を橋で超えていたようです。

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案内板ではこの通り。

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ちなみに、車止めのポールには多賀城の八葉弁蓮華文軒丸瓦が描かれていてオシャレ!

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さらに北上するとJR線路の手前に大路を復元した公園が現れます。奈良時代終りごろの18m幅と平安時代の23m幅を色の違いで示しています。

遠くに南門が見えてきました。

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線路を越えて進むと、南門跡です。

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現況では、ちょっとイメージ困難だと思いますので、案内板の復元図をどうぞ! 美しい!

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先に進むと、小さなお堂が・・・

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中には、日本三古碑の一つ国重文の「多賀城碑」が収められています。

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天平宝字6年(762)の修造を記念して建立されたものですが、故・木下良先生は、古代駅路に沿ってよく見られる立石に類するものではないか、とお考えでした。そもそも所在地の字名も「立石」だそう。

ここから周辺国境への里程が書かれております。

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昔から論点になっているのが、常陸国が下野国の倍近い里程となっている点です。

この頃は太平洋岸を東海道が延長されて走っており、ほぼ等距離だったはずなのです。

この疑問への木下先生のお考えは明快。東山道駅路を通って下野へ向かい、このブログで何度も取り上げている常陸国への連絡駅路を通った距離ではないか、とのこと。

このルートでは確かに下野国内を約90㎞に渡って通過することになり、足し算すると無理のない感じになります。

当時において、連絡駅路が重視されていた証でしょうか。

南北大路はさらに続き、ついに政庁域が見えてきます。

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奥に見えるのが政庁正殿跡、手前が政庁南門跡です。1/200サイズの復元模型と比較していただくと位置関係がお分かり頂けるとおもいます。

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南門跡まで戻り南を見下ろすとすばらしい眺めでした。

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では、城内を歩いてみましょう。

奈良時代の東門はこのように復元されています。

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平安時代になると、コの字に城内に張り込む形に。

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さて、実は最も楽しみにしていたのが、北側外郭線の築地塀の跡です。1/1000サイズの模型を北側から見ると地形の凹凸に沿って塀が巡っているのが分かります。

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案内板でいうとこの白いラインです。

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こんな感じで散策路に組み込まれ、辿っていくことができます。

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では、最も古い奈良時代の築地塀跡を追っていきましょう。

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急斜面を下っています。

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加瀬沼が見えてきました。足元には布目瓦を見つけることができます。

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これだけ生々しいのは、大宰府の大野城以来です。

実は3D地図でもこの築地塀跡ははっきりと見ることができます。

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谷に向かって斜面を下る跡がお分かりになりますか?

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尾根上にも残っています。階段で保護しています。

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これは平安時代のもの。築地塀跡巡り、満喫しました!(笑)。

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実はもう一つ、西門の構造が気になっていました。門前でT字路を作っているのです。

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北側から西門方向を眺めたところ。もう痕跡はないだろうな・・・

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と思ったら、残ってました! 浸食されて生活道跡のようになっていましたが。

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T字交差点から西門方向を見たところです。横たわる木が、通行止めとの意味と思われましたのでここで探索終了です。

最後に陸奥国総社を参拝して、多賀城探索を切り上げました。

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以上、超長文にお付き合い頂きありがとうございました。

これ、長すぎですよね(笑)。近いうちに、分割しようと思います。

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