現地レポート

伊賀国の東海道駅路を発見か⁈ ②航空写真と条理地割から検証

「一之宮切通し」と条理地割

前回ご紹介した「一之宮切通し」を米軍航空写真で見ると、キレイな帯状地割が写っています。この頃は竹林ではなかったようですね。

USA-M143-A-6-154 1946年5月23日撮影

そして、この帯状地割を南北に延長した直線(赤線)を引くと、周辺の条理地割とほぼ一致しました。

USA-M143-A-6-154 1946年5月23日撮影
いさな

いつもながら米軍航空写真の威力には脱帽です😊

一之宮切通しが古代道路痕跡と仮定すれば、条理と同時期に整備されたということになります。ご存じの通り、このような例は全国の駅路と条理でよく見られます。

以下、検証してみましょう!

伊賀国府への連絡路、東海道伊賀路とは?

この地域において東海道は凡そ下図のように時代変遷したと考えられています。

  1. 飛鳥時代=青線    飛鳥京・藤原京から伊賀、伊勢を抜け海路、参河へ(※大津京時代除く)
  2. 奈良時代=赤線    平城京から山城、伊賀、伊勢と抜け海路、尾張へ
  3. 平安時代=緑線赤線 平安京から近江、伊勢と抜け以後は②と同じ
下良『事典 日本古代の道と駅』吉川弘文館 2009年の図に加

ですから、飛鳥時代には下図のような各国府との連絡路が必要だったと考えられます。前回ご紹介した「一之宮切通し」が駅路痕跡とすれば、伊賀国府と本路をつなぐ連絡路「伊賀路」にあったはず、ということになります。

なお、伊賀国が伊勢国から分かれたのは680年(天武天皇9年)のこと。また、尾張国は天武・持統期には東海道でなく東山道に属していました。

木下良『事典 日本古代の道と駅』吉川弘文館 2009年の図に加筆

伊賀路の想定ルートは?

では、「一之宮切通し」=東海道伊賀路とみてよいのでしょうか?

ブログ主の結論から言えば、YES!です。理由は下図をご覧ください。

谷岡 武雄, 福永 正三「伊賀国条里制の諸問題」『人文地理』1964 年 16 巻 6 号に加筆

一之宮切通しを通るラインを延長し条理地割図の上に載せますと、約9㎞にわたって条理線とほぼ一致することが分かりました。(※赤丸三か所)。

このラインが条理プランの基準線であることは明白でしょう。

また、国府、国分寺と国分尼寺との位置関係を見ても国府域の基軸線であることは明らかです。

さらにダメ押しですが、国分寺域を拡大するとラインとの関係は下の通り。ピッタリ並行して区画が設定されているのがよく分かります。国分寺は「国の華」として駅路沿いに建立されたケースが多く見られます。

いさな

駅路との関連を考慮しないと、国分寺南北軸の微妙な傾きが説明できませんね。

下の写真は南から北を見たところ。手前の盛り上がりが東築地塀の跡で、駅路想定ルートは奥の垣根の向こうとなります。

以上をもって、本ブログでは一之宮切通し=東海道伊賀路痕跡と結論いたします!

最後に伊賀路全体の想定ルート(青線)を掲げます。壬申紀に見える隠駅家の北で東海道本路と別れ、国府を目指して直線的に進んでいます。

赤線は航空写真でみえる条理地割です。官衙跡とみられる遺跡もルート近くに存在しています。

いさな

南半分についても現地踏査しましたが、明確な手がかりはありませんでした。

今こそ駅路復元のチャンス!

伊賀国府の国庁跡が確認されたのは1991~94年調査だそうです。それ以前は国庁位置が不明だったため、伊賀路についても様々なルートが描かれていました。その後も定説がない状態が続いているようです。

ちょうど国庁跡の整備事業がスタートしたようですので、この時機をとらえて発掘調査での駅路復元に取り組まれてはいかがでしょうか?

終わり

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