現地レポート

大和国の古代道路 ⑦5世紀に天皇家と勢力を二分した豪族・葛城氏。その栄華を偲び古道を辿る(その4 一言主神と葛上斜行道路)

御所市森脇にある葛城坐一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社には不思議な神話があります。雄略天皇が葛城山に狩りに出かけたところ、天皇一行とそっくりの姿をした一団と出会い、その相手が一言主神と名乗ったというものです。

葛城坐一言主神社
葛城坐一言主神社へ向かう参道
樹齢1200年の伝承がある乳銀杏

そして、狩りが終わると、一言主は天皇を長谷山口(はつせのやまぐち)まで送ったとされています。雄略天皇の宮「長谷(泊瀬)朝倉宮」は、桜井市脇本にあったと考えられています。このことから、葛城から宮までを結ぶ道路「葛上斜行道路」の存在が推定されました。

下図の赤線のルートがそれで、軽衝(かるのちまた)を経て阿部・山田道を進み、横大路に入って宮へとたどり着きます。なお、斜行道路と名付けられたのは、奈良盆地を正方位で区切る条理地割を、斜めに横切っているためです。

“葛城の道”を4回に渡って取り上げてきましたが、ようやく核心部まで到達いたしました! この道が当時の国際港の一つであった紀水門(きのみなと)と「葛城の王都」、そして天皇の宮を繋ぐ、きわめて重要なルートであったということです。

紀水門と朝倉宮を結ぶ道路

このルートを押さえ、ヤマト王権の半島外交を担い、渡来人を招き大陸の技術を導入したことが、葛城氏の力の源だったとされています。そして、外交の一元化を進めた雄略天皇によって滅びを迎えます。

しかし、道は残ります。飛鳥時代以降には直線道に付け直されました。このブログでは蘇我氏が関わるのではないかとしました。その後、文字通り高野山へ向かう高野街道として使い続けられたようです。

心の師・近江俊秀氏がよく仰ることですが、道は歴史を語ります。だから、凹道探索はやめられません!(笑)

つづく

葛城の道俯瞰

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