現地レポート

壬申紀の道を歩く ③加太峠を越え伊勢へ(6月25日)

高市王と合流し鈴鹿へ

一行は莿萩野(たらの、伊賀市佐那具町)で6月25日の夜明けを迎え、しばらく行軍を中止して食事をとりました。吉野を出て二回目。

その後、約10㎞離れた積殖山口(つむえのやまぐち、伊賀市柘植町)に着くころ高市王が鹿深(かふか、滋賀県甲賀郡)を越えて一行に合流します。

高市王は24日夜に大津京を逃れ、現在のJR草津線に沿った倉歴道を下ったと考えられています。予定通りの待ち合わせ、といった感じでしょうか。

この倉歴道についてはこちらの記事をご参照下さい。

一行は伊勢大山(加太峠)を越え鈴鹿(亀山市関町)まで約16㎞進み、伊勢国司守らに出迎えられます。そこで、兵五百人を発し鈴鹿山道を塞ぎました。下図で位置関係をご確認下さい。

余談ですが、この加太峠、徳川家康が本能寺の変の後の逃亡劇「神君伊賀越え」で通過したことで有名ですね。

佐藤信編『古代史講義【戦乱編】』ちくま新書 2019年より

鈴鹿封鎖によって大津京からの追っ手を防ぐ構えが出来ました。畿内と東国を結ぶ主要交通路の結節点であったことは下図をご覧いただけばお分かりになると思います。大海人一行の行軍ルートを赤線で示しています。

木下良『事典 日本古代の道と駅』吉川弘文館 2009年の図に加筆

なお、この当時、鈴鹿関があったか定かではありません。近年、発掘調査が進んでいますが、また別稿にてレポートします。近世東海道の宿場「関宿」の街並みが保存され、旅情を誘います。

三重郡家で夜を明かす

その後、約20㎞先の「川曲坂本(かわわのさかもと)」に着くと日が暮れました。鵜野讃良皇女が疲労のためしばし休息したと記されています。

一行はゆっくり休む間もなく雨に降られ、近くの三重郡家で一夜を明かすことになります。日の出から日没まで約10時間を莿萩野から約49㎞行軍したこととなり、前日の徹夜も祟って疲労もピークに達していたことでしょう。吉野から約119㎞でした。

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