大海人皇子は672年6月24日(以下旧暦)、妻の鵜野讃良皇女や草壁・忍壁両王、舎人、侍女ら総勢30人余で吉野宮を後にします。
大海人皇子の湯沐邑(ゆのむら、皇族に与えられた実質的な私領)があった美濃を目指していたともされています。安八磨(あはちま)郡、現在の大垣市周辺にありました。
最初の休憩地、菟田吾城
一行は吉野から北上して複数の峠越えをし、菟田吾城(うだのあき)で食事をとります。現代でいえば、国道370号線に沿って進み、奈良県宇陀郡大宇陀町まで約16㎞の道程です。
ここには、「宇陀市阿騎野・人麻呂公園」として整備された中之庄遺跡があります。
飛鳥時代の掘立柱建物11棟以上、石敷溝、苑池遺構などが見つかっており、菟田吾城の中心施設の一部であると考えられています。
園内には掘建柱建物や竪穴式住居などが復元展示されてます。
歌聖・柿本人麻呂の像が建っていますがその理由は皆様ご存のこの歌。
「東の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」
持統6年(692年)冬にこの地・阿騎野(あきの)へ狩りに訪れた軽皇子に同行した際に詠まれたものなのだそうです。
なお、「かげろい」とは、「厳寒の晴れた早朝、夜明けの1時間前に空を染め上げる陽光のこと」(市観光協会)だそうです。黄道光説もあります。
伊賀に入り隠・伊賀駅家を焼く
一行はさらに北上し、約8㎞先の大野で日没を迎え、村の家の垣根を壊して灯火としました。現在の宇陀市室生区大野で、国道165号線または近鉄大阪線に沿って東へ進んでいます。
さらに約10㎞進み、夜半過ぎについに伊賀(当時は伊勢国の一部)へ入り、隠(なばり)郡家に着くと隠駅家を焼きます。そして、村人に従うように言いますが、誰もついてきませんでした。
壬申紀に焼き討ちの理由は書かれていませんが、追っ手に利用させないためだとも、一行の到着を烽火のように味方に知らせるためだったとも推測されています。
実はこの記述、駅制の成立に関する最初の確実な文献資料とされています。少なくとも近畿や周辺国ではこの時点で、駅制が整えられていたことが分かります。
隠駅家の位置は分かっていませんが、現在の名張川南方のどこかと考えられています。壬申紀に「横川」という川が登場しますが、このエリアでは東西方向に流れている名張川のこととされています。
横川で天下取り宣言
大海人皇子が「横川」に差し掛かると、夜空を横切る怪しい黒雲が目に留まります。自ら占うと、「天下が二つに分かれる兆しだ。最後には自分が天下を取る」と宣言します。
実はこの「横川」は当時、畿内の東端とされていました。大友皇子VS大海人皇子=畿内VS東国の戦いという構図を象徴したエピソードです。
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横川を越え約13㎞進んだ伊賀駅家も同様に焼かれます。こちらも具体的な位置については諸説あります。
そして、約7㎞先の丘陵地帯、伊賀中山で、郡司たちが数百の兵をひきいて帰服し、一行の人数は一気に膨れ上がるのです。
畿内の隠駅家と東国伊勢の伊賀駅家。おなじ焼き討ちでも、地元の反応が対照的すね。一行が敵地を脱したことが印象的に描かれています。
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6月24日の一日で一行は合計約70㎞を移動したことになります。平均時速は3-4㎞程度ですから、無理のないペースで進んだといえそうです。