現地レポート

壬申紀の道を歩く ①乱の起点となった吉野宮

緊迫する東アジア情勢の下、中央集権の律令国家体制を整えつつあった飛鳥時代の672年、古代最大の内乱「壬申の乱」が勃発しました。

天智天皇死後の皇位を巡る争いで、勝利したのは皇弟・大海人皇子。太子・大友皇子の率いる近江朝廷を一ヵ月足らずで倒し、天武天皇として即位しました。

『日本書紀』巻二十八“壬申紀”では乱の経緯が詳細に記され、両軍の動きも下図の通り具体的に分かっています。

佐藤信編『古代史講義【戦乱編】』ちくま新書 2019年より

本シリーズではこの内、大海人皇子が辿った道を吉野宮から朝明評家までご紹介します。

大津退去、吉野宮へ

671年10月17日(以下旧暦)、天智天皇は病床に大海人皇子を呼び皇位継承を打診します。しかし、大海人皇子は大友皇子を太子として推すと、持病を理由に固辞し出家して吉野宮に下りました。

天智天皇は父子継承を目指していて大海人皇子が承諾すれば謀反の疑いで排しようとしていた、大海人皇子はこれを察知してとっさの機転で逃れた・・・、という説が専らです。

吉野宮は斉明天皇が造営した離宮で、発掘調査によって、奈良県吉野町宮滝の宮滝遺跡が宮跡として比定されています。紀伊山地を蛇行して流れる吉野川右岸の河岸段丘上に位置します。

では、遺跡を歩いてみましょう! まずは全体像をご覧ください。

現地案内板に加筆

地図上の番号順に巡ってみましょう。①地点の石碑から。宮跡を後ろから眺める形になります。

次に新しい案内板のある②地点から。宮跡を横から眺めています。

次に③地点から。宮跡を正面から眺めています。建物の位置がマークされ往時を忍ぶことができます。

宮跡直下の吉野川河原に下りたところが④地点です。吉野川が刻んだ美しい渓谷の景観は今も変わりません。

改めて宮跡を吉野川対岸から俯瞰した画像をご覧ください。山と川に挟まれ自然豊であり、眺望も開けている素晴らしい立地でね。

最後に大海人皇子?の暮らしぶりをイメージしたイラストをご覧ください。琴や笛の音を聴きながら外で食事という場面でしょうか? 雅ですなぁ(笑)

現地案内板より

大海人皇子挙兵す!

672年6月22日大海人皇子は半年あまりの隠棲に区切りをつけ、ついに動き始めます。三人の舎人を美濃へ派遣し、不破道の閉塞を命じたのです。後に有名な不破関が置かれた東西交通の要衝であり、畿内と東国を遮断する狙いでした。

壬申紀は、兵を集めるなど朝廷側の大海人排斥の動きが伝わったため自衛のためやむなく挙兵、というストーリーを描いていますが、今日では計画的なものだったであろうという見方が強くなっています。

そして、24日、ついに吉野を発ち、東国へ向かうことになります。

POSTED COMMENT

  1. 道太郎 より:

    素晴らしいページが、誕生しましたね!風間さんらしいわかりやすく、また現地主義の深い魅力が満載です。このレポートページからどんどん研究者の交流が始まりそう!

    • isana より:

      今回はまず、大海人皇子の吉野脱出行ルートをご紹介します。実はその後がメーンで、マニア度満点の古代道路探しへと繋がっていく予定です。

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