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【ニュース解説】栗東市の古代東海道遺構は、「壬申の乱」の舞台か?!

滋賀県栗東市の高野(たかの)遺跡で、古代東海道とみられる道路遺構が見つかり、「壬申の乱」の倉歴(くらふ)道ではないか?!、と報じられ話題となりました。

誰もが教科書で学んだ歴史上の大事件「壬申の乱」の舞台というキャッチフレーズが注目を呼んだようです。

でも、倉歴道って初めて聞く方も多いはず。どんな道だったのでしょうか? ニュースの肝を解説いたします!

「壬申の乱」と倉歴道

都は当時、琵琶湖西岸の近江国滋賀郡にありました。近江大津京と呼ばれています。天智天皇6年(667年)に中大兄皇子が飛鳥京から遷都したもので、翌年に即位し天智天皇となるのはご存じの通り。

倉歴道は近江国と伊賀国(680年まで伊勢国)をつなぐ道で、伊勢国の鈴鹿関を経て東国に向かうための重要路でした。下図の青線です。現在では滋賀県道・三重県道4号草津伊賀線(杣街道)にあたります。

覚えておいて頂きたいのは、後に平安京へ遷都後、赤線が東海道となることです。

木下良『事典 日本古代の道と駅』吉川弘文館 2009年に加筆

ここを舞台に起きたのが「壬申の乱」。天武元年(672年)に起きた皇位を巡る内乱でした。天智天皇崩御後、後を継いだ太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子が挙兵して勝利し、天武天皇として即位しました。

倉歴道に関連しては、『日本書紀』に大友側の別動隊が倉歴(くらふ)、伊賀市柘植町)の大海側の営を襲い破ったが、その西の莿萩野(たらの)で敗れたとの記述があります。下図をご参照下さい。

佐藤信編『古代史講義【戦乱編】』ちくま新書 2019年より

これでニュースを理解するための地図が頭に入りましたね!(笑)

高野遺跡は倉歴道か?

そもそも高野遺跡の古代東海道遺構とはどんなものなのでしょうか? 説明会資料によると遺構配置図は下の通りです。

滋賀県文化財保護協会『高野遺跡発掘調査成果説明資料』2021年より

これだけではユニークさが分かりませんので補足しますと・・・。

高野遺跡のポイント
  1. 道幅(側溝芯々間距離)は約16m
  2. 側溝から8C4Q~9C初の須恵器や土師器、瓦が出土
  3. 周辺に7C1Hまでに埋没した竪穴建物跡

まず、駅路(前期)の道幅は9-12mが標準的ですのでかなり広めです。近江国内での駅路の共通の傾向のようです(例:五個荘町北町屋遺跡は約15m)。

延長線上の100m西側の地点でも側溝跡が見つかっており、直線道遺構であるとの決め手となりました。点と点がつながったという訳です。

また、今回は幸運なことに、側溝から年代測定のカギとなるような出土品が見つかり、平安時代初頭を中心とした時期にこの道路が使用されていたことが特定されました。

この二点をもって、歴史地理学で以前からこの位置に推定されていた古代東海道であると判断されるには十分でした。

そして、倉歴道との可能性につながったのが三点目、650年までに埋まった建物跡が道路遺構の下で見つかったことです。

つまり、それ以降から平安初期に東海道として使用されるまでの間、さらに言えば、「壬申の乱」当時に、道路として使われていた可能性が浮かび上がったのです。

歴史地理学で有名な北海道教育大教授の中村太一さんは記事(1月29日付読売新聞)へのコメントで、「元々は日本書紀に登場する『倉歴道くらふみち』として飛鳥時代後半に整備された道」とおっしゃっています。

このコメントが話題を呼んだわけです。

倉歴道は天智天皇が作った東海道か?

高野遺跡の位置を俯瞰すると下図の赤線の通りです。青線の東山道と具体的にどう接続して近江国府に向かったかはさておき、倉歴道を踏襲したルート上のものと見て間違いないでしょう。

中村さんは別の記事(1月29日付朝日新聞)で、こうもコメントしています。「朝鮮半島での白村江(はくそんこう)の戦い(663年)に敗れた天智天皇は、国内の防衛体制を整える一環で、東国と結ぶ道としてこの道を整備した可能性が高い」。

では、倉歴道は当時の東海道駅路だったのでしょうか? それがそう簡単ではないのです(苦笑)。

中村さんは故・木下良先生のお弟子さんで、師匠共々、駅路は白村江敗戦を受け、唐・新羅連合軍の侵攻に備え、天智天皇が国家防衛のために軍事目的で整備したとの立場をとっておられます。

実は考古学的には、幅広直線の駅路が全国に整備されたのは飛鳥時代の天智朝か天武朝か論争が続き、結論が出ていません。

高野遺跡の道路側溝でも平安初期以前に遡る遺物は見つかっていません。このため、中村さんも倉歴道を「東国と結ぶ道」と慎重な表現をとられたのでしょう。今回も論争に決着はつきませんでした。

まとめ

以上をまとめますと、高野遺跡が「壬申の乱」の倉歴道と全く同一という根拠はありませんが、ルートを踏襲したものとはいえそうです。

なお、本記事のベースになっている現地説明会資料こちらからダウンロードできますよ!

最後にGoogleマップで遺跡の位置を記します。

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