在宅探索の楽しみ

豊前国の古代駅路 ⑥伊藤田田中遺跡と切通し痕跡

地元図書館にしか置いていなかったりする発掘調査報告書。凹道探索においては“宝の山”なのですが、涙を飲んで諦めることも少なくありません。ところが今回はたまたま、大阪府立中央図書館さんのWeb複写サービスで入手できました。最大の収穫はこの図です。

伊藤田田中遺跡_周辺の地形と調査箇所(昭和51年圃場整備前の状況)
伊藤田田中遺跡_周辺の地形と調査箇所(昭和51年圃場整備前の状況)
大分県教育庁埋蔵文化財センター 2010年 伊藤田田中遺跡発掘調査報告書 

「昭和51年圃場整備前の状況」で、野依条里の南限に駅路の想定ルートが描かれています。同じく圃場整備前の1974年航空写真に条里と駅路のラインを書き込むとこのようになります。下から三段目だけ正方形ではありませんが、耕地を最大限確保しようとしたためでしょうか。

伊藤田田中遺跡_1974年航空写真

さて、最初の図に戻って頂き、右下の「a」の場所に注目下さい。図には「台地から下る掘り割りの道が残る」と注書きされています。私の大好物の切通しです!(笑) 

ところが、いつもの立体微地形図で見ると、微妙に南へずれています。点線が想定ルートをそのまま延長したもので、二重線が切通しを通った場合のラインです。切通しの西で走行方向が変わったと考えてよいのでしょうか?

伊藤田田中遺跡_K3D_アップ

こういう時は、昔の航空写真の出番です。1962年のもので、直線道痕跡を追うと▼ようになります。画面に定規を当てて下さい(笑) 一直線ではなく、途中で微妙に曲がっているようです。

では、二重線の切通しラインについて、駅路の痕跡はあるのでしょうか?

右端の▼が示す直線道痕跡の部分を立体微地形図で御覧ください。黄色線が航空写真に写っていた旧道で、やや南北にうねっていますが、微高地上にあり行政界を通っているのがお分かりになると思います。道の脇にはあやしい帯状地割も見えます。二重線はほぼ重なっています。

飛永池周辺

では、この旧道はどれくらい古い道なのでしょうか?

下の古地図は近世に描かれた飛永池周辺です。池は現在よりやや南に広がっていたようですが、当時の道はほとんどそのまま踏襲されているようです。一番下の↑が示すのが旧道で、宇佐神宮へ通じる旨、書かれています。少なくとも近世の勅使街道であるのは間違いないようです。(古地図は大分県教育委員会 1991年『宇佐大路 宇佐への調査』より

近世村絵図_飛永池付近
近世村絵図_飛永池付近
大分県教育委員会 1991年『宇佐大路 宇佐への調査』

以上から、切通しの西側で転向する二重線のラインは、駅路の想定ルートとして有力であると考えてもあながち誤りではないでしょう。

では、具体的に転向点はどこなのでしょうか?

まぁ、既に地図中に「転向点」と出ちゃってますから、ネタバレもいいとこなんですが(笑) 結論としては、ちょうど条里地割が途切れる所のようです。俯瞰で見るとこんな感じです。

伊藤田田中遺跡_K3D_俯瞰

改めて見ると、駅路と条里が極めて精密な設計にもとづいて構築されていることに気付かされます。いつものことですが、設計者と酒を酌み交わして苦労話を聞きたくなります(笑)。

最後に、駅路遺構の状況についてご紹介します。

伊藤田田中遺跡では幅約10mの駅路遺構が見つかっています。渡河地点の近くのためか、側溝は未検出ですが、波板状の連続土坑が確認されました。

伊藤田田中遺跡_西海道の道路遺構(連続土坑)
伊藤田田中遺跡_西海道の道路遺構(連続土坑)
大分県教育庁埋蔵文化財センター 2010年 伊藤田田中遺跡発掘調査報告書

調査報告書によれば、「いずれの土坑の中からも木痕跡や砂利、遺物の出土はない。埋土はやや粘質の灰褐色土で、上面では土坑を覆い隠すように広がりを見せていた」とのこと。いわゆる波板状凹凸面は、全国の駅路遺構で検出されており、その多くが地業(基礎工事)と考えられています。(近江俊秀 2006年『古代国家と道路』ご参照

以上、長々と書いてしまいました。発掘調査報告書一つで、これだけ楽しめるというのがマニアのマニアたる所以ですね(笑)。

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