現地レポート

港津と郡衙を繋ぐ想定伝路 ―――常陸野に眠る蝦夷征討の補給線

奈良時代の常陸国は、蝦夷征討の後方拠点でした。このため古代官道も、食料など物資の補給線としての役割を持っていました。大量の物資を運ぶための水上交通路と一体的に運用されていたとも考えられています。

象徴的なのが、水戸市東方の平戸町に比定されている平津駅家です。涸沼川沿いの微高地上にあって、港津を兼ねていました。陸地が狭いため、駅館院などの関連施設は、那賀郡衙正倉別院とともに台地上に設けられていたと考える研究者もおられます。

トップの3Ⅾ地図(高さは3倍強調)は、後世の干拓地など低地を水色で表示したものです。微高地が緑色で見えますので、当時の地形を把握しやすいと思います。

余談ですが、涸沼川から太平洋へ延びる直線的な低地がご覧になれると思います。これは大貫運河跡で、暗礁が多い那珂川河口を避けようと江戸時代に開削が試みられ、失敗に終わった跡だそうです。また、海岸沿いの丘上に見える二つのピークは古墳です。

さて、今回訪れたのは、駅家と那賀郡衙を繋いだ伝路とみられる古道痕跡(青線)です。

地上の表徴だけでなく、西端の町付遺跡で、長さ33mの直線路が実際に確認されています。ローム層を逆台形状に掘りこんでおり、上面幅は4m弱、底面は3m前後だったそうです。

では、東から西へと紹介していきましょう。

「ダイダラ坊通り」と名前の付けられた車道から別れ、住宅地から林の中に進むと舗装路が終わり、直線的な道が伸びています。写真と立体地図でご覧下さい。

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ほどなく軽い上り坂となり、浅い切り通し状となって越えます。幅4-5mの緩い凹型地形となっており、中心部の2-3mが道として使われています。要は、古代官道の佇まいがあるホリワリということです(笑)。

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ピークの手前で左脇にやや狭い掘割状の道跡がありました。上りを避けたトラバース道が使われた時期もあったようです。

窪地の田んぼで一旦途絶えますが、先を見ると林間に道跡が続いていきます。軽いアップダウンがあり、低い場所では土を盛って土手状とし、高い場所では掘割状にしているのが見てとれます。

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踏跡が見える場所もありました。

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ほどなく、開けた畑地に抜けますが、道跡はそのまま直進します。立体地図ではこの先に、窪地を横切る切通し状地形がはっきりと見て取れます。藪がひどく写真ではうまく撮れませんでした。

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その先にも、明瞭な道跡が残っています。木が伐採され草が刈られているのは、発掘調査の準備でしょうか?

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今回歩いたのはここまで。この先で最初にご紹介した町付遺跡につながっておいます。全体図をご覧下さい。

(図は、川口武彦 2008年「茨城県水戸市台渡里廃寺跡長者山地区大串遺跡第7地点」『古代交通研究会第14回大会資料集 アヅマの国の道路と景観』古代交通研究会)

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ご覧になって、いかがでしたか? 駅路に比べれば道幅は狭いものの、佇まいは古代官道そのものです。常陸国のホリワリ探索は初めてでしたが、期待が一挙に高まりました(笑)。

◎資料編

中村太一 1996年『日本古代国家と計画道路』

「平津駅家の背後には「涸沼」があり、この地域は河口部型の港津を設置するために極めて好適な条件を有している。そして、この涸沼は常陸国の中で最も陸奥国よりに位置する河口部湖沼であり、ここが東国一帯ひいては東国以西から陸奥国に向かう船舶の重要な拠点、あるいは集合地点であった可能性は高い。したがって、ここに置かれた港津において、征夷事業の関わる物資の補給や船団の編成が行われたであろう」

川口武彦 2008年「茨城県水戸市台渡里廃寺跡長者山地区大串遺跡第7地点」『古代交通研究会第14回大会資料集 アヅマの国の道路と景観』古代交通研究会

「大串遺跡第7地点に正倉別院が設置されたのは,単に東海道駅路と那珂川・桜川に囲まれた八部郷や芳賀郷,志万郷からの租税の収奪の強化・円滑化を図るためだけでなく,危機時には陸奥国の鎮所(多賀城)へと軍糧を船で回漕しやすくするため,平津駅家と複合させ,軍糧補給を効果的に行えるようにする側面もあったのではないか。蝦夷征討とその兵站補給基地としての役割を担った河川港という平津駅家の性格が,那賀郡衙の正倉別院との一体化あるいは複合させる契機のひとつとなった可能性を指摘しておきたい」

近江俊秀 2014年『日本の古代道路 道路は社会をどう変えたのか』

「風土記に見える平津駅やは大串遺跡のある台地の下にあったと考えられており、その場所は那珂川、涸沼川の河口に近い。立地から見て、太平洋の海上交通に伴う水駅であった可能性が高く、大串遺跡は平津駅やで積みおろされる物資を保管する施設であった可能性がある」「常陸国の駅路が港湾と結びついていることについては、律令国家が継続的におこなっていた蝦夷との戦争が関係していると考えられる」

水戸市教育委員会 2008年『水戸市埋蔵文化財調査報告第14集 大串遺跡(第7地点) 介護老人保健施設建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書』

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