現地レポート

常陸国の古代駅路Ⅵ ②国府域と謎の駅路ルート

常陸国については既に30本ほどレポートをアップしていますが、石岡市の国府域についてきちんと取り上げるのは今回が初めてです。地形的な手掛かりが少なくルート推定が難しいためですが、これまでに調べ、歩き回った成果をまとめてみたいと思います。

まずは下の図をご覧ください。国府国庁と国分僧寺・尼寺という中心施設は、恋瀬川と山王川に挟まれた台地上の西側にまとまって配置されています。発掘調査によって、初期官衙が東を正面としていたことが分かっています。ですから、先行して敷設されていたはずの東海道駅路は、その東側を南北に通過していたと考えられています。

常陸国府域 3D

具体的にはどんなルートを通っていたのでしょうか? 赤線で示した県教委歴史の道調査の推定に従って、恋瀬川右岸から辿ってみましょう。

①でご説明したルートを北上すると、かすみがうら市東野寺の切通しで、氾濫原に下ります。ここでやや東に進路を変えて渡河後、対岸の古井戸「小目(こもく)井」付近に達します。府中六井の一つで、現在も水が湧き出しているそう。

国司の四等官(しとうかん)に守(かみ)・介(すけ)・掾(じよう)・目(さかん)がありますが、「目」はさらに大目・少目に分かれていたそうで、井戸の名前との関連性も指摘されています。

ここからなだらかな小支谷「田端谷津」を登り、ゆるやかにカーブしながら北上したと考えられています。周辺にはお馴染み「長外路」という関連地名も残っています。台地上には直線的な現道が走っています。

石岡国府域南3D
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現道は途切れますが、平国香開基と伝わる平福寺と府中酒造の敷地を抜け、北向観音に至っていたと推定されています。そこからは正方位の南北約800mの直線道路が走っています。現道は再び途切れますが、山王川渡河点手前には約600mにわたる直線道があります。

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この推定ルートで唯一の泣き所は、国分寺の七重塔跡とされる通称「ガラミドウ」の西側を通るため、寺域を横切ってしまうことです。およその寺域を紫色枠で囲っておきました。

さて、次に私の仮説(青線)です。渡河時に小目井まで迂回せず、直進して台地に取り付きます。そこからは、下の図の通り、迅速測図に見える直線道同士を繋ぎました。

常陸国府域 迅速測図
出典:歴史的農業環境閲覧システム(農研機構農業環境変動研究センター)

なんだか斜めに走っているので格好良くありませんが、最短距離かつ、直線的に国府域を縦断します。正方位でないという点では、以前ご紹介した奈良時代の連絡駅路と考えられる黄色線も同様です。

連絡駅路の痕跡は、正方位の土地区画になじまない斜行路として残っています。例えば、国府2丁目の鈴ノ宮稲荷神社裏手には、走行方向を駅路と同じくするこんな道が。

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この神社、なにを隠そう、駅馬の利用許可証だった「駅鈴」を祀ったものだそうです。ここに駅家があったとも伝えられています。

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二つの駅路がほぼ直角に交わる場所の近くであり、国府付属駅がここに存在したとしても不思議ではありません。

北向観音北の直線道は、寛文4年(1664年)の地図にも見えるそうで、古いのは間違いありません。しかし、市の中心部は、大掾氏が正平元年(1346年)より府中城(東西500m、南北400m)を取り立てた際に、古代と大きく地形が変わっていると考えらえます。

以上により、私は青線を推定ルートといたします。これも県教委説と同じく、国分寺を横切ってしまっているのですが(笑)。

国分寺を建てるために、駅路を付け替えた播磨国のような例もあります。もしかしたら、時代変遷があるのかもしれません。

つづく

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