現地レポート

壬申紀の道を歩く ④朝明郡家から不破へ(6月26・27日)

朝明郡家で吉報相次ぐ

大海人皇子は6月26日朝、三重郡家を出発し、朝明(あさけ)郡の迹太(とお)川のほとりで、天照大神を望拝し戦勝祈願をしたとされています(太陽を向いてとも、伊勢神宮の方角を向いてとも)。

すると間もなく、遅れてきた大津王が合流。朝明郡家に着こうとするとさらに、美濃の軍勢「三千人」で不破道を塞いだ、とのグッドニュースがもたらされます。

大海人皇子は早速、高市王を不破に送り軍の指揮をとらせるとともに、東海・東山道に動員の使いを発ししました。

鈴鹿に不破と東西交通の要衝二ヵ所を押さえたことで、大津朝廷の東国との連絡を断つことに成功。挙兵から僅か3日目ながら、大海人側優位が確立した瞬間でした。

大海人皇子はこのときのことを終生忘れなかったようです。天武天皇として即位後、伊勢神宮の宮を整えた上で式年遷宮を発意、さらに斎宮を制度化します。初代斎王は天武天皇の皇女である大伯皇女でした。

式年遷宮の歴史についてはこちらを、斎王の歴史については下を覧ください。

さて、朝明郡家の可能性が高いとされるのが久留部官衙遺跡です。

近年、歴史公園として整備され、様々な建物が復元展示されています。

入口に建つのは八脚門。Ⅰ期7C2H~8C1Hの建物の復元だそうですから、大海人皇子一行がくぐった門も同様の姿だったことでしょう。

正殿(奥)と脇殿です。

一行はこの日、桑名郡家へ移動して夜を明かします。吉野から合計で約145kmとなりました。

大海人皇子は不破へ

翌27日になると高市王から、大海人皇子が桑名郡家に留まっていては軍の指揮をとるのに不便なので不破まで来てほしい旨、要請がありました。

大海人皇子はその日の内に、皇女らを残して不破に入りました。不破郡家に着こうとするころ、尾張国司守が「二万」の兵をひきつれて帰順しています。

吉野出発からわずか4日間で、美濃・尾張・伊勢という東国三国の兵の動員を成功させ、交通の要衝を押さえた大海人皇子側の圧倒的優勢で、乱の第一幕は終わります。

大海人皇子はその後、行宮を設営し、乱が終結するまで不破の地を動くことはありませんでした。

終わり

※後の不破関についてご興味ある方はこちらをご覧ください。

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