朝日を背に田園地帯を進むと、小高い丘となった風の森峠が見えてきました。和歌山港から紀ノ川沿いに北上してきた“葛城の道”も、ここを越えるといよいよ奈良盆地に入ります。古墳時代の旅人達も、一息ついたことでしょう。
道は当時、丘の裾を巻いて北側に抜けたようです。1500年後の私たちが道筋を追えるのは、鴨神遺跡の発掘調査で道路遺構が見つかっているためです。
発掘されたのは約130mの区間で、幅は2.5~3.3m。路面に砂を入れたり切通したりと、地盤や傾斜に応じて、様々な工事が施されていました。地形に合わせて曲折していることから、踏み分け道を改修したものと考えられています。
写真中央から右奥にかけての田圃の下に、道は眠っています。
一緒に出土した土器から、遅くとも5世紀後半には存在し、6世紀後半には廃絶したことが分かっています。といっても、飛鳥時代には、峠を直線的に切り通す道に付け替えられたと考えられています。写真は、峠の南側に残る新旧道の分岐点です。
峠を越えた北側には、高野街道の痕跡と伝わる切通しが今も残ります。写真は峠を振り返って見たところです。
道跡はこの先、約1㎞は谷の浸食を受け途絶えますが、その先はまた辿ることができます。“葛城の道”は本宗家の滅亡後も重要な道として使われ続けたようです。
ただし、葛城地域を経由せずに、王宮と紀伊を直接に繋ぐ巨勢(こせ)道(紀道)が敷設され、幹線道路が交代したと考えられています。道脇の集落や古墳の分布の変化がそれを物語っているそうです。
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峠の頂上付近には、風の神である志那津比古神(しなつひこのかみ)の小祠があり、「風の森」の由来となったようです。
周辺では、製鉄の際に出る鉄滓が出土するそう。炉にふいごで空気を送り続ける必要があり、風の神を祀っていることとの関連性も指摘されています。峠南の佐味(さみ)は、葛城襲津彦が半島から連れ帰った渡来人の技術集団「佐糜(さび)」が住んだ地域と考えられています。
そして、近くの古社・高鴨神社の祭神「阿治須岐詫彦根命(あじすきたかひこねのみこと)」は、刀剣など鉄製の利器を神格化した神であるともされます。ですから本来は、佐糜氏や高宮氏といった南郷遺跡群の渡来人が祀った神であった、とも。
ちょっとフライングして、南郷遺跡群が出てきてしまいました(笑)。次回は、「葛城の王都」といわれる遺跡群とそこを通る“葛城の道”をご紹介します。
つづく