2021年10月の地元報道によれば、さくら市狭間田(はさまだ)で幅12mの東山道遺構が見つかりました。気付くのが遅れたブログ主が翌年1月に駆け付けたときは、当然ながら埋め戻された後でした。_| ̄|○
実はここ、古代道路ファンの間では有名なスポットです。
さくら市のホームページによれば、樹齢約250年の山桜の大木「将軍桜」と根元を通る古道が、都と東北を繋いだ「将軍道」として東山道の名残をとどめています。
現地案内板はこちら。
ここでいう「将軍」はお馴染みの八幡太郎・源義家で、北東約1㎞の長者ヶ平官衙遺跡ではお決まりの長者焼き討ち伝承も残っていました。
さくら市と那須烏山市の市境を走る「将軍道」については、東山道を踏襲したことが発掘調査で明らかになっています。
「将軍桜」の背後を走っていた東山道
歴史ロマンに水を差すようですみませんが、桜の前の古道は東山道痕跡ではないことが分かりました。
古道の切通しも、微妙な位置ではありますが、駅路の走行方向と一致しません。
実は以前から、古代道路ファンの間では、「将軍道」がここで南へ屈折していることが謎となっていました。これより西の東山道推定ルートから外れてしまうためです。
この謎も、今回の遺構確認で一発解決しました!
下は60年代航空写真です。東山道は平野部へ下りた地点でわずかに転進後、用水路として残っていた直線地割に沿って進み、側溝のある道路遺構が見つかっている南原遺跡(高見沢町氏家)へと達します。
ただし、別の謎が残りました。道幅の問題です。
「将軍桜」遺構は幅12mで、いわゆる前期駅路のフル規格です。
ところが、北の新道平、厩久保遺跡は5-7m幅で、南の南原遺跡も6mと、いわゆる後期駅路のサイズなのです。
道幅だけを見れば、前後の駅路と「将軍桜」遺構は時代観が合いません。
西へ進むと謎のV字古道が
このラインを西へ西へと延長していくと鬼怒川渡河点の手前で興味深い古道に接続します。この古道を東山道を踏襲したものと指摘していたのは『高見沢町史』です。
まずは60年代航空写真で俯瞰でどうぞ。
次に米軍航空写真(1947年11月撮影)でアップで見ましょう。やや膨らんでいるあたりがなんともそれっぽくて良いですね!
さて、古代道路ファンの皆さんなら、東山道ルートからV字に分岐する直線古道が気になるはず!
そして、このラインを延長すると驚くべき事実が!!!(水曜スペシャル風)
つづく