遺跡南方に想定ルートを探ると・・・
想定ルートを涸沼川南岸に伸ばそうとすると、困ったことが起きます。古墳にぶつかってしまうのです。当たり前ですが古墳の方が時代が古いはず。どうやら渡河点で走行方向が変わっているようです。
下が問題の古墳で山倉神社が建っています。正式には「塚原古墳群4号墳」と呼ばれている円墳です。
単純に想定ルートを延長できないとなると、また別の手掛かりを探さなければなりません。先行研究にあたるといい場所が見つかりました!
義家伝説地・泥障塚古墳
次の手掛かりは約4㎞先の巴川南岸にありました。
義家が奥州征伐のおり馬の泥障(あおり)を埋めたと伝わる泥障塚(でいしょうづか)古墳群と、その中を突っ切るかつて「溝道」と呼ばれた「古代官道跡」とされる切通し跡です。
3Ⅾ地図でみると確かに古墳群と切通し跡がハッキリ見えます。
現地をみてみましょう!
藪が濃く見えにくいのですが、ゆったりとしたお椀状の帯状窪地が巴川まで一直線に続いています。古代道路の痕跡として申し分のない佇まいです。
現地案内板ではこの通り説明されています。
試みに先ほどの想定ルートへつなげて線を引くと・・・。途中、怪しい地形のオンパレードでした!以下、これを仮定ラインとして検証してみましょう!
仮定と検証のプロセスが机上探索の醍醐味です!😊
義家伝説地・手堤池
まずはここ、手堤池(てづつみいけ)です。名前の由来は、大雨で池が溢れて通れないので義家が兵士の手で堤を作らせたという伝承です。
現在の堤防道路の位置は先ほどの仮定ラインとズレていますが。。。
明治時代の迅速測図だとほぼ重なります。近現代に池の改修があり道路位置の変更があったようです。
駅路は低地を横切る時、盛土(築堤)して道路面を作ります。この際、灌漑用のため池と一体で整備されるケースがありました。
義家伝説地・五万人窪
次の怪しいポイントはこちら。義家が兵を休ませたという「五万人窪」の北にある切通しです。等高線の幅は0.5m。
終戦直後の米軍航空写真で見るとこの通り。帯状地割がクッキリと写っています。
現地はこの通りで、現道の脇に広い帯状窪地が残っています。茂みでよく見えませんね・・・。その下の6年前に撮影した写真もご覧ください。
なお、五万人窪に関連してはこんな伝説が残っています。茨城県内の伝説については「茨城の民話webアーカイブ」が大変参考になります。
焼き討ちされた長者の伝説は関東一円に広がっています。
新発見の美しい帯状窪地
最後はこちらの帯状窪地です。今回、新発見したものです。
現地を訪れてビックリ! オープンカットの道路痕跡がそのまんま残っています。今すぐ道路として使えそう!
反対から見たところ。発掘調査されれば五万堀古道遺跡のような遺構が見つかるに違いありません。
これほどの立派な痕跡に出会えて感激!
さて、仮定ラインと例の古墳の位置関係ですが・・・。この通りギリギリで横をすり抜けています。といいますか、そもそも古墳を目標にして設計されたように見受けられますね。
以上の検証により、仮定ラインを古代東海道の想定ルートといたします! 涸沼川渡河点で2度ほど転向しているようです。
そういえば、高崎市の延喜式東山道ルートでも古墳を目標物としたらしき場所がありましたっけ。
安侯駅家推定地と想定ルート
涸沼川南岸には安侯駅家の推定地である東平遺跡があります。
発掘調査報告書では建物跡の向きに合わせ下図のような推定ルートを描いていますが、これだと五万堀古道遺跡のラインにうまく繋がりません。本ブログの想定ルートを青線で書き足しました。
なお、東平遺跡周辺では炭化米が出土することから、焼き討ちに会った可哀想な長者の伝説が生まれた、と考えられています。
つづく