古代道路の探し方

【上】痕跡地形から読み解く土浦市中心部の古代東海道ルート ~駅路はどこを通った?~

”未詳”のままの駅路と駅家

今回お話しするのは、常陸国信太郡の東海道駅路にあった曾禰(そね)駅とその周辺

駅名は延喜式(10世紀中頃施行)にも見え、この駅路区間は敷設から廃絶まで約300年にわたって機能したと考えられています(※下図ご参照)。

木下良 2009年『事典日本古代の道と駅』より

現代で言えば土浦市中央部で、下のGoogleマップのエリア。北の新治台地と南の稲敷台地に挟まれた桜川氾濫原となります。

早速、駅路と駅家の位置について、定説を確認してみましょう! まずは、いつもの”バイブル”『地図でみる東日本の古代』をご覧ください。

島方洸一 企画・編集統括 2012年『地図でみる東日本の古代
律令制下の陸海交通・条里・史跡』より

残念ながら、この通り、駅路も駅家も”未詳”です。

ベースの地図は明治38年(1905年)測図の五万分の一縮尺で、かなり粗い精度ですが詳しく見てみると、、、

駅家については、水田地帯の真ん中にある「田中」集落①と、下高津の台地上②に比定しています。

①のエリアには、平安末期の仁平3年(1153)に創建と伝わる八幡神社があります。

②のエリアには、8‐9世紀の住居跡2軒が見つかった下高津小学校遺跡があります。推定駅路の走行方向と建物主軸が一致しているそう。円面硯も出土しています。

一方、駅路については、①から南に伸びる小径と、②から北へ台地を下りる小径を痕跡と捉え、これらを破線でつないでいるようです

いさな

手掛かりが少なく、地元研究者の皆さんのご苦労が偲ばれます。

定説が見落とした?直線道の痕跡

実は定説が見落としたと思われる直線道路の痕跡が二つあります。

まずは、北の新治台地上。

桜川河岸から、かすみがうら市の愛宕山3号墳(円墳、直径34m、高さ5.5m)まで、約10kmに渡ってほぼ一直線に道路痕跡が伸びています。方位が微調整されているのは、図中の「切通し(隠滅)」の一か所だけです。

代表的な痕跡としては、まずは上図中に地点A~Eと記載したこちら。

米軍航空写真(角度未調整)

その南の「字鎌倉」「切通し(隠滅)」の間は、木下良先生がご指摘されたエリアで、よく知られています。

米軍航空写真(角度未調整)

そして、稲敷台地の北、桜川南岸にも直線痕跡はあります。

条里痕跡の区割り線として、台地上の推定駅路ルート→切通し坂ときれいに接続しています。途中の用水路には橋も架かっていて、「道」として使用されていたようです。

米軍航空写真(正方位)

駅路痕跡が条里の基準線として明瞭に残っていた例が県内にあります。

笠間市の仁古田・長兎路境界で、すぐ北に有名な五万堀古道遺跡が、すぐ南に安侯駅家推定地があります。

直線道痕跡を繋ぐと現れる駅路ルート

古代道路ファンでしたら、当然、南北二つの直線痕跡の位置関係が気になるところ。

試みにそれぞれ延長してみたところ。。。。。桜川北岸できれいに交差しました!

いさな

なぜこれまで推定ルートとして紹介されてこなかったのか、不思議です😓

お馴染み迅速測図で見るとこの通り。

新治台地から真っすぐ南下し、桜川渡河点で転向、さらに稲敷台地で東へ折れてさらに直進。見慣れた駅路の姿です。

歴史的農業環境閲覧システム (農研機構農業環境研究部門)より

ところが一つ、大きな問題があるのです。

駅路が使われていた律令時代、桜川は土浦城の北を流れていたとされているのです!

いさな

次回は条里痕跡から古代桜川の流路を推定します。地図・地形ファンの皆さん、ご期待下さい!

つづく

※参考文献は最終回にまとめます。

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