2013年の発掘調査で、駅路の特徴である側溝と波板状凹凸面が検出され、一躍、古代山陰道の代名詞となった出雲市斐川町の杉沢遺跡。
東西に隣接する三井Ⅱ遺跡と長山遺跡を合わせると、丘陵尾根上を約1kmにわたり幅約9mの道路が縦走していたことが確認されました。
(※以下、写真・図は断りのないものは全て、出雲市教育委員会「出雲市の文化財報告33 出雲国古代山陰道発掘調査報告書 出雲市 三井Ⅱ・杉沢・長原遺跡の調査」2017年より)
左側(北)の側溝、右側(南)の波板状凹凸面、そしてこのワイドな平坦面! これぞ駅路! 堪りませんね!(笑)
調査報告書でも、「このような事例は全国初のものであり,今後の古代道のルート解明にとって大きな意義をもつ発見」と胸を張っておられます。
なお、その後保存のため埋め戻され現在はこの通りでした。_| ̄|○
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さて、気を取り直して、地理的位置から確認いたしましょう! まずは、Google Earthで西から俯瞰したところです。
日本海へ島根半島の山塊がドーンと突き出してます。南の中国山地と挟まれた平野部が出雲市。杉沢遺跡は南辺の低丘陵に位置します。
出雲国内の官道ルートは下図のように推定されており、風土記に正西道(まにしのみち)と見える東西道路が山陽道です。
現地の地理が大体イメージできたことと思います。そこで、冒頭写真の杉沢遺跡2013調査区からの眺めをkashmir3Dで再現してみましょう。面白いことが分かりますよ!
まず、西方向から。
出雲平野を一望出来るのはもちろん、馬見烽候補地の二つともが視界に入ります。次に東側。
宍道湖方面の眺めも開けています。布自枳美(ふじきみ)烽推定地の嵩山(頂上が平らに見える山)が視界に入ります。右手奥に出雲国府があります。
何を言いたいか、お分かりになりますね?(笑)。
出雲国には意宇・神門・熊谷の三軍団が置かれていました。有事の際に行軍する軍団兵が、烽火台からの情報を得ながら、目的地までの安全を確認するための絶好ポイントなんです!
実際、山陰道がなぜ平地を迂回せず、大きな工事をほどこしてまで杉沢遺跡等のある丘陵尾根を通ったのかについて、専門家の皆さんは軍事的色彩の強さを指摘されています。
見通しが悪く挟撃される恐れのある谷間の道は避けたかったのでしょう。 海岸付近の低地を通すと、上陸した敵に分断されるかもしれません。
仮想敵国(古い?)は、半島の覇者・新羅。大規模な上陸軍の到来に備えていました。
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杉沢遺跡等は出土した須恵器・土師器片から7C後半に造られ、少なくとも8C前半には機能していた考えられています。そして当時、日本は半島を統一した新羅との間で緊張が高まっていました。
天平 4年(732)には辺境の防衛体制として西海・山陰・東海・東山道に節度使が任命され、お隣の石見国に山陰道節度使の鎮所(司令部)が置かれています。
風土記に見える施設を地図に落としたものが上で、5つの烽火を含め九州大宰府周辺のような物々しさを感じますね。
さて、”杉沢遺跡等の軍事的色彩”について歴史的背景をご説明するところまでで今回は終わりとさせて頂きます。次回は現地写真を中心にレポートします!