今回ご紹介する区間で、一か所だけ、駅路が「く」の字に屈曲して谷頭を迂回したように見える場所があります。直線性にとことんこだわる奈良時代の駅路ですが、ここだけは地形的に諦めざるを得なかったのでしょうか? 立体微地形図で概観をご覧下さい。
![蒲ケ山の屈曲点](https://c1.staticflickr.com/1/315/18618372611_c88ecae4d2_z.jpg)
論より証拠ということで、まずは、青線の想定ルートに痕跡が残っているかをチェックしましょう。手前から低地に下る現道脇の雑木林に入ってみると…。
![](https://kodokiko.com/wp-content/uploads/2021/02/image-96.jpeg)
![IMG_0084](https://c1.staticflickr.com/9/8889/18428660728_02476a1c58_n.jpg)
この通り、見事な帯状地割が続いています。民家の塀際に覗く凹状地形をふまえると、この地割と現道までが、かつての駅路の敷幅だったと想像できます。
谷底道を先に進むと、再び台地に上る場所に切通し地形があります。立体地図で見るとそれなりの広さがあるはずですが、藪が酷く写真ではよく見えません。整地に伴い埋め立ても進んでいる様子。上りきってから振り返ると道の痕跡らしい地形が見て取れます。
![IMG_0081](https://c1.staticflickr.com/9/8864/18430474559_024d033114_n.jpg)
![IMG_0076](https://c1.staticflickr.com/1/396/17993977514_54e711c36f_n.jpg)
このように想定ルートは、曲折する谷底道に沿った後、元の直線へ復帰しています。この様子は、旧版地図と1947年の米軍航空写真をご覧頂くと分かりやすいと思います。
![蒲ケ山の屈曲点_迅速測図](https://c1.staticflickr.com/1/344/18428453498_56a60a2cfc_n.jpg)
![蒲ケ山の屈曲点_明治39年測図の旧版地図](https://c1.staticflickr.com/9/8899/18611634492_d3e0005371_n.jpg)
![USA-R1183-27_19480327_稲敷市_蒲ケ山](https://c1.staticflickr.com/1/382/18618374051_558e0054df.jpg)
痕跡からすると、駅路がある時期、迂回路をとったのは確かなようですが、その理由となると想像を膨らませるしかありません。ただ、こういう場合、他所の例でみると、当初は直進していたが、後世になって谷の開析が進み、谷頭を避けるために道を付け替えたケースが多いようです。
もしかしたら、武蔵国の東山道から東海道への所属替え(772年)に伴う駅路の再編成に起因する付け替えかもしれません。旧版図の左から合流してくる黄緑破線が、平安時代の駅路です。
さて、次回は、立体微地形図で藪の中に痕跡を発見!、というレポートです。乞うご期待!