雄略天皇の時代(5C後半)となると蜜月は終わります。『日本書紀』に3度の反乱伝承が描かれ、吉備はヤマト王権に屈服し衰退していったとされています。巨大古墳の築造が途絶え、周辺地域に中小古墳が分散して築かれるようになりました。
代表的なのが、造山古墳から西へ約5㎞進んだ高梁川対岸のエリア(旧・真備町)です。奈良時代にあの吉備真備を輩出した下道(しもつみち)吉備氏の本拠地と考えられています。
このエリアで近年、前出の松木教授による発掘調査により、大きな発見が相次ぎました。最も注目されたのは、小田川右岸の勝負砂(しょうぶざこ)古墳です。
全長43mのホタテ貝型古墳で5C後半の築造。半島南部の伽耶に由来するスタイルの粘土を多用した竪穴式石室で、武具や舶載品とみられる馬具などの多数の豪華な副葬品が出土しました。
付近の天狗山古墳も同様の石室構造で、いずれも伽耶の方式にのっとり、石室・棺をすえて葬儀を行った後に墳丘を築いていました。従来は、墳丘を作った後に上から穴を掘って、石室・棺をしつらえていましたから、造営手順の大転換です。
松木教授は、「朝鮮半島との交流をにない、鉄素材や先進技術の導入窓口となることで実権を握っていた長たち」と考えられるとしています(松木 2011年)。
また、前方後円墳の数だけに目を移すと、古墳時代中期前半に吉備中心部で9基だったものが、後半には21基と倍増しています。
こうして見ると、墳丘の小型化=地域の衰退、とは単純に言えないことが分かります。
さらに、半島や日本における「東アジア墳墓文化」という視点で見直すと、「各地の高塚墳墓が一様に小円墳に単純・簡素化して横穴式の墓室を内部主体に採用するという波」が5Cから6Cにかけて伝播したと考えられるそうです(歴史読本編集部『古代王権と古墳の謎』2015年)。
実は、付近の二万大塚古墳(38m、6C中頃)は、前方後円墳としては吉備で初めての横穴式石室タイプです。
半島との交流において先進地域であった吉備で、他地域に先駆けて古墳の小型化が進んだのかもしれません。
つづく