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【吉備国特集】3.“双子の古墳”が象徴する吉備とヤマト王権の蜜月期

ライバル関係のイメージが強い両者ですが、吉備の首長はある時期まで、大王家と姻戚関係を結びヤマト王権を支えていたようです。

特に、5C前半における両者の蜜月ぶりを象徴しているのが、造山古墳(上図)と履中天皇陵に治定される上石津ミサンザイ古墳(下図)の相似関係です。

造山古墳
ミサンザイ古墳 方位
ミサンザイ古墳

ご覧の通り、墳丘の規模や外形が極めて似ていることから、同じ設計図に基づいた“双子の古墳”ではないか、とする地元研究者も少なくありませんでした(高橋 1992年など)。

相違点とされてきた周濠の有無についても、近年、岡山大学の新納泉教授による発掘調査で存在が確認されました。

造山古墳周濠復元図

残念ながら現在では、同じく新納教授による精密な三次元測量により、3段築成された各部の寸法や傾斜が微妙に異なることが判明し、同一設計説は否定されています。

一方で、新納教授は巨大前方後円墳の比較検証により、中国由来の尺度にもとづく「歩(約1.4m)」の基本単位と直角三角形の三辺比を用いる、同一の設計原理が使用されていることもつきとめました。

ですから、造山古墳もいわばオーダーメードで設計されており、築造に際しては、ヤマト王権から技術者が派遣されていたと考えられる訳です。

また、国立歴史民族博物館の松木武彦教授は、貴人に差し掛ける傘を模した蓋(きぬがさ)形埴輪の分析から、ヤマト王権側の古市古墳群を手がけた工人が派遣され、現地で製作していたと推定されています。

蓋型埴輪

突き出した笠部分の造作が技術的に難しく、本場の作り手と地元で出来栄えの差があるそうです(笑)。

このような造山古墳の調査結果から、松木教授は、各地域が独自に競合しながら築いたのではなく、「人・技術・情報の密接なやりとりという協力のネットワークのうえに、畿内を中心とする各地の大型前方後円墳が林立した」と想定されています(松木武彦『古墳とはなにか』2011年)。

ただし、5C前半の協調関係はその後、雄略天皇の登場により覆ることとなります。

つづく

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