今回はもう、Google earthで作成した3D図をご覧いただくだけで、お話ししたいことはお分かりいただけたのではないでしょうか?(笑)。
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大阪市の中心部で、古代の宮殿遺構が見つかったのは戦後になってからで、それまでは「日本書紀」にだけ見える幻の都とされていました。
その後の発掘作業の進展で、赤線で示された飛鳥時代の遺構、青線で示された奈良時代の遺構が確認されました。
大化の改新(645年)の後、孝徳天皇による難波遷都で造営された難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)です。
それ以前の飛鳥京とは比較にならない大規模な宮都でした。
朱鳥元年(686年)の火災で焼失しましたが、8世紀に聖武天皇により再建されました。公園には当時の大極殿礎石が復元されています(写真)。
方格地割の条坊も白線/紫線のように復元されています。古代の地形では、半島状に突き出した上町台地を覆うように都が築かれていました。
宮殿から南下する朱雀大路の先は、難波大道と呼ばれる幅20mの直線道路(写真)で、大和と接続されていました。
延暦3年(764年)の長岡京遷都で、都としては歴史から姿を消します。
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大変興味深いのが、国内最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が海岸沿いに築造された5世紀半ば頃、ヤマト政権も難波の地に拠点を築き、港を開いて大規模な倉庫群を建設していたことです。
半島式の土器が大量に見つかっており、渡来人が携わっていたことが分かっています。半島からの蕃客(外交使節)を迎えるための迎賓館のような施設もあったと考えられています。
この地は古墳時代から東アジア諸国に開かれ、国の威容を示すために様々な建造物が築かれていたわけです。
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古代でもその地理的な重要性は変わっていません。位置を巡って議論が続いていますが、難波京にも難波津という国際港がありました。
半島から瀬戸内海を経て大和に至る交通ルートの”海の玄関口”であったと考えられています。
遣隋使、遣唐使もここから発着したとか。
こうして見ると、律令体制の建設へ向かう革新的・国際的な国風を象徴するのが、飛鳥時代の難波京であったといえそうです。
※Google earthで使用したデータはすべて、公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所
のwebサイトからダウンロードしたものです。