イラン中西部のハマダーンは古代の大国メディアの首都であり、イラン最古の都市の一つとして知られる歴史ある都市です。
その近郊の山岳地帯で近年、道路遺構が確認されました。
メディアを滅ぼしついにはオリエント全体を支配した超大国、アケメネス朝ペルシアが、絶頂期の紀元前5世紀に築いた幹線道路「王の道」の一部であると考えられています。
今回、調査を担当されたイスラーム自由大学のBehzad Balmaki助教
(写真はLinked in より)のご好意で、本ブログ上で現地写真などを紹介することが可能となりました。
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まずは、現地調査の模様をご覧下さい。
斜面に工事を施してテラス状の平坦面を作り、水平に道を通していた様子がよく分かりますね。
ただし、さすがに長年の侵食により埋没や崩壊が進んでおり、敷設時の姿をイメージしにくい状態です。
狭い部分では生活道にようにも見え、実際、遊牧民の通商ルートとして使われていたようです。
気になる当初の道路幅ですが、Balmakiさんに伺ったところ、やはり推定困難とのお答えでした。
興味深いのが、道路脇の岩に刻まれた鑿(のみ)の跡です。大規模な工事が行われた痕跡は確かに残っています。
なお、ルート上では紀元前3世紀のパルティア期の陶器片も見つかっています。
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改めてご紹介すると「王の道」は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によって紀元前5世紀に敷設された幹線道で、全長は首都スーサから小アジアのサルディスに至る2,400km。広大な版図を迅速な交通と通信で繋いでいました。
ハマダーンへ向かうルートは、「王の道」の支路と考えられてます。
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、「この公道を利用したペルシアの旅行以上に速い旅は、世界のなかでも他にはない」と記しています。
「20~30kmごとに、111の宿駅が設けられ、馬や食料が備えられていた。宿ごとに待機した郵便夫が書状をリレー方式で中継し、スサからサルデスまで6日~8日で伝えた(普通人は3ヶ月かかった)」(宮田律『物語イランの歴史』2002年)
日本の古代駅路も、当時の「高速通信インフラ」(近江俊秀氏)であったとされますが、それを遥かに凌ぐ規模であったようです。
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アケメネス朝ペルシアにおいてハマダーンは、平均標高1,850mと高地にあることから、夏季の王都としての機能を持っていました。
このためスサ=サルデスのメーンルートから支路が伸びていました。
下図の右端がハマダーンで、西に向かうとメソポタミアです。(※Balmaki氏論文より引用)
この途中には、ギャンジナーメ碑文というアケメネス朝期の磨崖碑もあります。
ゾロアスター教の最高神アフラマズダー、ダレイオス1世と息子クセルクセス1世を称えたものです。
この「王の道」支路の重要さを物語っているといえそうです。
磨崖碑といえば、歴史の教科書にも載っていた、かの有名なベヒストゥン碑文も、支路をメソポタミア方面に進んだ場所にあります。
古代ペルシア語の楔形文字の解読の決め手となったことで知られていますね。
ダレイオス1世が自らの血統や正当性を主張するために作らせた磨崖碑です。
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実は、Balmakiさんに質問メールを送ったきっかけは、ベヒストゥン碑文近くの想定ルートでGoogle Earthで見つけた下の地形でした。
典型的なソイルマークであり、これが日本国内であれば古代道路の痕跡と断言するところです。
Balmakiさんも存在自体はご存知だったそうですが、発掘調査をしてみないとなんともいえない、とのことでした。
問題はこのソイルマークの幅。なんと30mもあるのです。
後になって調べたところ、他所での発掘調査の結果、「王の道」の幅は5-7mであったと考えられています。後の時代のローマ街道が4mですから、実用上、必要十分なサイズであったと言えますね。
してみると、先ほどのソイルマークはなんなのでしょうか? 古代オリエントではいくつもの大国が盛衰を繰り返していますから、もしかしたら「王の道」のものではないのかもしれません。
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本記事のベースとなったBalmakiさんの論文はウェブ上に掲載されていますので、ご興味ある方はご一読下さい。
※This report is based on the article“New evidence for the Achaemenid Royal Road in the Alvand Mountains (Hamedan, Iran)”,
Behzad Balmaki,Antiquity Issue 349, Volume 90February 2016
. All pictures of Hamedan are offered by Dr.Balmaki and subject to copyright.