古代の高速情報インフラたる駅路が、出来る限り真っすぐ最短ルートを選んで進んだことはご存じの通りです。
ところが、下野国府から陸奥国までの区間、東山道はなぜか逆くの字に折れ曲がり、わざわざ遠回りしているように見えます。
駅路の変遷を推定した木本説
駅路らしからぬ姿の背景には、何らかの時代変遷があったのではないか?
古代道路の研究において多くの業績を残された故・木本雅康氏(元長崎外国語大学教授)はかつて、下図の説を唱えられていました。
①「バイパス的な路線」の駅路が先行して存在し、②平安時代に那須郡家経由の伝路に一本化された、という説で、全国的な駅路再編の流れの中に位置づけられています。
木本説を裏付ける発掘成果が、磐上(いわかみ)駅の比定地となっていた小松原遺跡(大田原市湯津上)の第四次調査でありました。東山道遺構が見つかったのです。
調査区の遺構配置図をご覧ください。側溝間は広い方で約12m、狭い方で約9m。道路遺構としての時代区分は明確になっていないようですが、9世紀後半前後の土師器、須恵器片が出土しています。
小松原遺跡が平安時代に機能した後期駅路上の駅家集落である可能性がより高まったといえます。
下の写真は、2021年11月に訪れた現地の様子です。東山道ライン上で北西方向を眺めています。
至福の瞬間です。これが見たいがために全国を旅しています。
さらに最短距離を結ぶ直線ルートがあった⁈
木本説を詳しく見てみましょう。
「バイパス的な路線」の駅路は近世の関街道が踏襲したとお考えでした。白河の関へ向かう道ということでこう呼ばれていたそうです。
那須郡においては黄色線のようなルートを推定されていますが、直線的な行政界や道路の関連地名が残っていたそうです。
なお、箒川左岸には秀衡街道とよばれる大きな古道跡があり、木本説では駅路と那須郡家の連絡路ではなかったかと推定されています。
ちなみに秀衡とは奥州藤原氏第3代当主のあの秀衡です。奥州へと向かう道というイメージだったのでしょう。
さて、関街道=駅路とすると、一点、大きな問題があります。バイパス路といってもほとんど距離短縮になっていないことです😓
そこで黄色ラインをズバッと思い切って南西へ延長してみたのが下図です。
「将軍道」ルートが見事にショートカットできました!
そして、前回ご紹介した鬼怒川左岸で東山道から分岐する直線古道こそが、「バイパス的な路線」の延長ラインでありました。以下、「直線ルート」と呼びます。
この「古道Y字路」こそが新旧駅路が存在した痕跡と考えております。
もう一つ興味深いのが両ルートの切り合い状況です。下図は、古道の左右への振れから駅路の道路敷を復元したもの。
明らかに直線ルートが本道で、「将軍道」ルートが支路です。
駅路と伝路の分岐点でそっくりなケースがあります。埼玉県所沢市の東山道武蔵路と鎌倉街道上道の分岐点です。
上道のこの区間は、その直線性や地域の拠点を繋ぐ役割から伝路を踏襲したと考えられています。
次回では直線ルート仮説を総括いたします。
つづく
なお、所沢市の古道分岐点についてご興味あれば過去記事をご覧ください。