在宅探索の楽しみ

三浦半島の古代東海道はどこに? ~逗子市横断ルート仮説⑦終~

今回は逆に、走水渡海説の立場でレポートします(笑)。

東征神話が描かれた『古事記』『日本書紀』が編纂されたのは奈良時代初めの頃。また、天平7年(735年)の正倉院文書『相模国封戸租交易帳』に「御浦郡走水郷」が見えますから、「走水」が由緒ある地名であるのは間違いなさそうです。

ところが、具体的な位置が不明な上、平安中期の辞典『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』では、御浦郡の五つの郷に名前が出てきません。

これについては、誤脱か、御浦郷への併合が考えられるそうです。宝亀2年(771年)に古代東海道がルート変更された際、「水駅の走水が廃止されたことに伴う措置と想定される」とも。(荒井秀規「相模国封土租交易帳と条里制」『関東条理の研究』2015年

さらに、『相模国封戸租交易帳』記載の水田面積から想定すると、走水郷の範囲は、北は大津、南は浦河湊(久里浜港奥)と2つの良港を含む広範囲となるようです。

なお、その後、明治初期の『旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)』では、「走水村」の名前が載っており、これは現地名に繋がっています。

ブログ主がストーリーを描くなら、奈良時代の渡海駅は走水郷のどこかの港津にあり、後に郷名だけを現「走水」が引き継いだということでしょうか? なかなか説得力ありますね(笑)。

ただし、荒井氏は、旧バイブル『神奈川の古代道』の執筆メンバーのお一人ですから、厳密に走水渡海説です。

百歩譲って(笑)、走水から渡海したとして、そこまでのルートでは、以前記事化した通り逗子市→葉山町間の海岸/丘陵越えがある上、半島を横断する途中でかなりのアップダウンが存在します。

特に気になるのは、蛇行する川沿いに谷底を通過する区間があることで、とても奈良時代のwide&straightな前期駅路とは思えません。ひたすら直線的な常陸国の駅路痕跡を思い出してください。

条理地割痕跡とも見える地形からスタートして、逗子市横断説を展開してきましたが、走水渡海説には積み上げられた研究史があり、一朝一夕でひっくり返るものでもなさそうです。

発掘調査で駅路遺構が検出され、議論に決着がつく日を夢見ております。(下図は、『地図でみる東日本の古代』2012年より)

島方洸一 企画・編集統括『地図でみる東日本の古代 律令制下の陸海交通・条里・史跡』平凡社 2012年
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