飛鳥の終末期古墳は、その立地において、古代中国の風水思想の影響を受けているのではないか?
“飛鳥発掘の第一人者”として知られる河上邦彦氏(元・樫原考古学研究所副所長・附属博物館館長)が唱えられた説です(河上邦彦「終末期古墳の造墓理念」『考古学ジャーナルNo.655』2014年)。
河上氏が注目されたのは、墓地の適地を決めるための陰宅風水における「穴(けつ)」を類型化した四象です。「穴」とはいわゆる龍穴のことで、気が吹き出ている場所です。
例として、「乳穴形」に相当する立地の中で、斉明天皇陵の可能性が高いとされる牽牛子塚古墳を挙げています。
主尾根から派生した3本の尾根の中で、中央の突端に近い部分に古墳が築かれ、他の2つの尾根が鳥の翼のように中央を包んで延びています。
このように、概ね三方を山に囲まれ前方が開けている場所が吉地とされています。次の図もご参照ください。
さて、ここで、前回取り上げた勝負砂古墳を思い出して下さい。
谷の開いている方向は東側となりますが、「鉗穴形」の立地であることに気付かされます。
6C半ば築造の二万大塚古墳は「窩穴形」に見えますが、発掘調査報告書によれば元々は下図右の丘陵とつながっていて「乳穴形」だったようです。
さらに、小田川左岸に目を転じると、5C後半築造の竜王塚古墳が、まさに「乳穴形」となっています。
なお、丘陵上の天狗山古墳は、「突穴形」とみることもできますね。
なんだか狐につままれたような感じ(笑)とは思いますが、陰宅風水によって選地し、工事が施されたように見える古墳ばかりです。
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周辺の「二万(にま)」地名は、天智天皇が半島遠征のために二万の兵を集めた、という伝説に因んでいるそうです。
二万地域は、高梁川と小田川の合流点であり、「酒津」地名も残るように、古代の良港であったと想像されます。
もしかしたら、被葬者達はここから船出して半島に渡り、他地域に先駆けて風水思想を持ち帰ったのかもしれません。
ただし、河上氏は、「日本での風水の導入は、6世紀末頃と考えられる」とされています。
この説より100年早く吉備の造墓で導入されていた?!、というトンデモ仮説が証明される日は来るのでしょうか・・・。
最後にもう一度、造山古墳をご覧ください。とっても見事な「乳穴形」であります。ここまで来ると、ちょっと出来過ぎ?(笑)
終わり