総柱建物跡は碓氷郡衙のシンボルだった?!
町北遺跡で最も地味な遺構といえば、この総柱建物跡でしょう。青テープに囲まれたエリアです。
礎石が抜き取られていて柱列が分からない上、南部分が未発掘のため全体像が分からず、「8C前半頃に機能」(現地説明会資料)していた頃のイメージが沸きづらいですね。
でも、もし、これ↓が建っていたとしたらどうでしょうか?
写真は下野国那須郡衙の正倉の復元模型です(那珂川町なす風土記の丘資料館所蔵)。
約9m×約27mと大型な上に、瓦葺丹塗白壁と大変ゴージャス(古い?)な作りで、まるで国府の中心官衙のようですね。
この建物は郡衙のシンボルで特別な「法倉」と考えられています。飢饉や疫病などで天皇の恩徳として放出する稲穀を貯蔵していました。
そして、町北遺跡の総柱建物も法倉だった可能性があります。実は類似点が複数存在するのです!
①地業が施され叩き固められた基礎(版築工法)の上に建つ礎石建物。
②梁行は最大約9mで同等。3倍程度の桁行が十分に想定される。
③瓦葺の上、漆喰壁の白壁であった可能性が高い。
➃軒丸瓦などから推定される築造年代がほぼ一致。
※那須郡衙法倉(下野国分寺創建瓦)=8C中葉。町北遺跡(山王廃寺系Ⅲ式)=7C4Q~8C前半で、大型掘立柱建物と同時に8C前半に機能。
結論として、この総柱建物、「法倉」で間違いないのでは?
上野国ではほかに、佐位郡正倉跡(伊勢崎市)や多胡郡正倉跡(高崎市)で、やはりほぼ同時期に建てられた法倉と見られる正倉群が見つかっています。
碓氷郡衙にも存在したとして何ら不思議ではありません。
では後期東山道はどこを?
もう一つ、ここで注目したいのは、法倉は正倉群のなかでもっとも目立つ高所に建てられ、道路側に向くなど景観にも配慮していることが多いということ。
例えば、多胡郡衙法倉はまさにこの条件にピッタリの立地です。
碓氷郡衙エリアにおいても、法倉は駅路からよく見える場所にあったはずです。
となると、東山道の後期ルートはやはり、より南寄りに移設され、近世中山道(オレンジ線)が踏襲した可能性が高いということになりますね!
おそらく今後まとめられる発掘調査報告書では、現地説明会のときより一歩踏み込んだ表現で、各遺構の性格付けがなされるはずです。
町北遺跡一帯が碓氷郡衙中心エリアで且つ、この総柱建物が「法倉」の可能性が高い、と記載されるのではないかと期待しております。
おわり