8C前半に郡衙の画期、駅路も?
本シリーズも4回目、これで総括と致しますよ~! 下図をご覧ください。
青線が「将軍道」ルート、黄線が直線ルート、赤線は関街道です。
さて、新旧ルートの付け替えがあったとして、その時期はいつでしょう?
頼りの木本説でも、関街道ルートから「将軍道」ルートへの駅路の移行時期については明示されていません。残念!
初期駅路の解明が進まない中、手がかりとなりそうなのが、駅路沿線の郡衙の変遷、特に正倉の礎石建物化です。
正倉を瓦葺礎石建物とするのは、陸奥国と接する北関東の郡衙における特徴と見られ、国家の威信や支配の正当性誇示といった目的を持っていたと考えらえています。
例えば、那須郡衙は、瓦葺丹塗白壁の壮麗な総柱大型建物で知られていますが、その建造は8C中ごろ。以降、正倉の礎石基壇建物化が進み、郡衙の最盛期を迎えます。
他に、郡家別院とされる長者ヶ平官衙遺跡や河内郡家(後期は芳賀郡家別院)とされる上神主・茂原官衙遺跡でも、政庁が整い本格的に官衙が充実するのは8C半ばごろからです。
こうした郡衙の変化の背景と考えられているのが、律令国家が進めていた東北経営(征夷事業、蝦夷征討)です。
征夷の物資輸送で河川交通を重視か
8C前半は征夷事業の転換点でした。
養老四年(720)の蝦夷による按察使上毛野朝臣広人の殺害とその後の反乱鎮圧。石背・石城国の陸奥国再編。天平(729~)からは関東諸国を坂東として一体把握し征夷支援にあたらせました。
各国の郡家には征夷の最前線への補給物資が集積され、いざという時の積み出しルートも整備されていたと考えられています。
それが河川交通です。
そもそも、国府や郡家といった官衙が水陸交通の結節点に置かれていたことはご存じの通りです。
那須郡を流れる川は那珂川へと集まり、那珂川の水運を使えば、下流の常陸国の那珂郡家や東海道の平津駅と容易に連絡することが出来ます。
芳賀郡家別院とされる長者ヶ平官衙遺跡も近くを流れる荒川から那珂川へ出ることが出来ます。
芳賀郡家(堂法田遺跡、真岡市京泉)の近くを流れる五行川は、利根川水系小貝川の支流ですから、那珂川へのアクセスを持つために別院を設けたのかもしれません。
脱線しました!😅
北関東における物資輸送の一大拠点であった平津駅。那珂川河口にあった潟湖に位置し、征夷の兵站基地(軍港)とされています。
ルート変更で陸上・水上交通の統合強化か
長くなってしまいましたが、ブログ主の推理は以下の通りです。
征夷の本格化で北関東の後方基地化が進む中、那須郡においては、那珂川を使った物資輸送を重視し郡家を集積拠点として強化、駅路も経由ルートへと付け替えた。
下の図はこの推理をベースに、下野国と常陸国の水陸交通路による一体化の様子を表現いたしました。
実際、物資輸送で水上交通が使用されていたことは記録に残っています。
今回シリーズでは、那須郡での東山道の付け替え説から征夷のための物資輸送ルートが改めて浮かび上がりました。
「道は歴史を語る」とは心の師・近江俊秀さんのお言葉ですが、しみじみと実感した次第です。
長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
おわり