議論の続く明石川左岸から一転、右岸には明瞭な直線道痕跡が残っています。特に、丘陵に上がると、邑美駅まで、旧道(近世西国街道)がほぼ一直線に続いています。定説となっている想定ルートは下の通りです。
旧道は若干左右に振れますが、米軍航空写真では直線道痕跡が見て取れます。例えばこんな感じです。
さて、実は邑美駅は、10世紀編纂の『延喜式』には見えず、それまでに廃止された“まぼろしの駅”と言われていました。ですから、古代の地名などから付けられた仮称です。
比定地となっている長坂寺(ちょうはんじ)遺跡は、国府系瓦が出土することから廃寺跡と考えられていました。発掘調査の結果、駅館院(やっかんいん)と見られる他駅同様の80~90mの方形区画などが確認されました。Googleマップで見ても、ほほえましいほど方形地割が明瞭です。
出土品では、8世紀中頃の須恵器壺・杯が見つかり、一方で7世紀、9世紀に前後する遺物はなかったそうです。また、周辺には、「大道池」「古前(=古馬家?)池」など関連地名も残っています。
ここまで証拠が揃えば、県立考古博物館さんが「幻の邑美駅家である可能性は、限りなく高まった」と発表されたのも当然ですね。
なお、駅の西側に想定ルートに沿って存在する「長池」について、中村太一氏は駅路の敷地だったのではないか、と考えられています。(2000年 『日本の古代道路を探す』)
さらに西側に進むと瀬戸川の河岸へ下りますが、かつては段丘の途中に切通しの痕跡があったようです。米軍航空写真でみるとこの通りです。
私の住む関東から見ると、考古学調査で駅家とほぼ断定できてしまう山陽道はうらやましい限りです。駅路の敷地である条理余剰帯(道代)も残存地域が多いですから、想定ルートも描き易いですよね。
ということで、最後に、明石川右岸のモデル的な条理地割痕跡をご紹介します。余剰帯の幅は20m強あります。
1974年の航空写真でみるとさらによく分かります。
今回も古代景観のスケールの大きさには圧倒されます。次回は、駅馬40疋が配されていた“国内最大の駅家”賀古駅です。