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議論がある区間であり未踏査なので、本当はコメントを差し控えるべきなんですが・・・。この1946年の米軍航空写真を見てしまうと、我慢できません!(笑)
最終回の切通しから真っ直ぐ進むと、清明川の刻む低湿地にぶつかります。ここから先、工業団地が整備されたせいもあって、駅路痕跡は不明瞭になっています。ところが、70年前の写真を見ると、定規で引いたような道路痕跡が見えちゃいますねぇ・・・。(注:清明川北に▲マークした場所は送電線であることが分かりました。)
ということで、明治初めの迅速測図に仮定で線を引いてみました。青が『地図でみる東日本の古代』、赤が奈良時代の駅路?、黄緑が平安時代以降?のつもりです。
イメージとしては、青が当初の直線プランで、赤が実際の駅路。谷の開析が進み、より北側の黄緑へ付け替えが行われたという流れでしょうか。あくまで仮定に過ぎませんが(笑)
それはさておき、特に気になるのが、円で囲った部分。築堤の跡にしか見えません。Googleストリートビューで見ると、何やら案内板も立っている様子。地元研究者の皆さん、ヒントを教えて下さい!(T_T)
おバカな話しはこれくらいにして、探索シーズオフであり、嫁にもダメ出しされました。いつか踏査の機会もあるでしょうか。
なお、稲敷台地上には、中世城館址が多数存在し、古代以降の地形改変を考慮に入れる必要があるようです。特に、江戸崎城へと通じる台地上の通称「江戸崎街道」を遮断するようなかたちで、二つの谷頭を結ぶ「堀切」状の土塁と堀が約30か所存在しており、筆者のような素人は駅路関連の地形と見誤る恐れがありそうです。
(茨城県教育財団 2008年『二重堀遺跡 主要地方道竜ヶ崎阿見線バイパス整備事業地内埋蔵文化財発掘調査報告書』)
下の写真は二重堀遺跡の遠景です。