律令時代の桜川流路は?
土浦城が取り立てられたのは、室町時代の永享年間(1429年~1441年)とされています。桜川は当時、城の北側を流れ、その後、現在の流路へ付け替えられたと伝えられているそうです。
資料では、次のように書かれています。
「築城当時は城郭の北側を流れていたのを、洪水の害が大きいので寛政3年から文政元年(1462~1466)に上流約2kmの虫掛から南側に現河道のように変えた」(山口恵一郎 等編1972年『日本図示大系関東Ⅱ』)
「長禄三(1459)年から三年がかりで、坂田から下高津へ掘割りをつくり、桜川河道を切り替えたという伝えは、一説では油免(大曲り)からとも言われているが、時期的には考えられないほどの大工事である」(土浦市史編さん委員会 編 1975年『土浦市史』)
室町時代の流路変更を調べるのには苦労しました😅
中世以前の古代の流路はどんな姿だったのでしょう?
『地図で見る東日本の古代』の明治38年(1905年)測量の地図に戻ると、実はここに緑線で描かれていました。
行政界となっており、古代の筑波郡と信太郡との境界線でもあったと考えられています。おおよそ現在の新川と一致しています。

律令制下の陸海交通・条里・史跡』より
古代の流路を迅速測図上に復元するとこの通り。土浦城北側では、川岸?の小径のカーブを参考に自然な蛇行を再現してみました。

川がないはずの場所で転向する駅路の謎
渡河点をアップしてみましょう。駅路推定ルートは桜川氾濫原を直進し、途中で字「長道路」脇を通過します。よく見かける駅路関連地名(ex.笠間市長兎路)です。

農研機構農業環境研究部門)
に加筆渡河点のすぐ南に、中世の寺院跡と伝わる字「能西寺」があります。
ご注目頂きたいのは、水田のど真ん中にある長細い「林」(60×20m)と楕円形の「畑」(120×80m)。駅路を踏襲したと見える小径も伸びています。
迅速測図の「水」は湿田のことで、水はけが悪く年間を通して地面がぬかるんだ状態にある田圃のことです。現在でも蓮田として使われている部分もあります。
つまり、低湿地に土盛りして微高地を築いたことになります!
状況証拠的には、いつの時代のものかはさておき、何らかの交通関連施設があったように見えますがどうでしょうか?
なお、左端の「大曲」地名は、先ほどの引用文中にあるものです。確かにここから流路が大きく曲がっていますね。
さて、問題はここから南。
なぜ駅路ルートがカックンと転向しているのでしょう? 当時は桜川はここを流れていないはずですが。。。

農研機構農業環境研究部門)
に加筆条里痕跡が語る古代桜川の分流
公図ってご存じですか? 土地の区画を示した登記所備付地図データで、法務省が近年、web公開しました。
迅速測測図の範囲の公図を調べてみたらビックリ! 古代の条里地割がかなりハッキリと残っていました。

この図を作るのにパズルのような手作業で半日かかりました😅
米軍航空写真でも、確かにこの通りに地割が見えます。堤防内の河川敷にご注目!

さらに、条理の碁盤目状の方格を東西に広げ、迅速測図上に載せたところ、二度ビックリ!
なんと、条里の方格と小径(特に東西方向)がほぼ一致しました! 現在の桜川流路と両岸に条里が広がっていた証拠です。
流路変更の伝承が証明されたことになりますね!😉
当ブログではこれを、「佐野子・田中条里仮説」と呼びます。

農研機構農業環境研究部門)
に加筆では、今度は米軍航空写真で少し広域を見てみましょう。
「佐野子・田中条里」の南、現在の備前川を挟んだ対岸に、方位の異なる広い条里痕跡が広がっています。
条里の方位が川の南北で異なるということは、先ほどの理屈の逆で、古代にも備前川がここを流れていたことになります。

ということで、桜川と備前川の古代の流路を、迅速測図上に復元したのが下図です。
二本に分流していたということで、「古代桜川分流仮説」と呼びます。

地理院地図の地形分類(自然地形)に重ねて見ると、旧河道や自然堤防、後背湿地の分布と矛盾がないことも確認できます。
駅路ルート転向点の謎を解明
これでようやく駅路ルートの転向点が何故ここにあるのか、分かりました。要は渡河点だった訳です。
さらに踏み込むと、古代の本流は備前川、桜川は支流だったと推測します。
推定駅路が一方は直線でスルーして、他方は転向していることが根拠です。渡河の困難さの違いを示していると思われます。

この図にたどり着くまで10年かかりました。ホントです😊
さて、実は気になる場所が一つあります。
米軍航空写真の中央に見える30×30mの謎の草地です。推定駅路ルートに隣接。水田の端にポツンと意味ありげに設けられていて、あたかも渡河のための交通関連施設跡のように見えます。

つづく
※参考文献は最終回にまとめて記載します。
【参考】室町時代の流路変更工事とは?
冒頭の『土浦市史』の記述を振り返ってみましょう。
「長禄三(1459)年から三年がかりで、坂田から下高津へ掘割りをつくり、桜川河道を切り替えたという伝えは、一説では油免(大曲り)からとも言われているが、時期的には考えられないほどの大工事である」(土浦市史編さん委員会 編 1975年『土浦市史』)
当ブログの「古代桜川分流仮説」に従えば、流路変更部分は下図の赤線の部分だけだったのではないでしょうか?(※西から東、上流から下流方向を俯瞰)

「大曲」から下高津まで約700mを繋いで古代備前川へ流し込んだ、と考えれば、土木量としても無理は少ないはずです。
現在、途中にかかる「学園大橋」では、昭和の工事で河川敷に太い丸太数十本が見つかっています。中世鎌倉街道の橋脚か、流路変更工事の土留めと言われているそうです。
その後、近世までの間に、水害対策として、現在の桜川を本流として堤防で囲み、備前川は用水路として利用するようになったのではないでしょうか?
なお、備前川の名前の由来はハッキリしませんが、おそらく水戸市の桜川(当時は千波湖)から備前堀が引かれた江戸初期以降、同じ「桜川」の用水路ということで「備前」の名前をもらったのではないか、と考えています。
地元研究者の皆様、情報あればご教示ください!😊
茨城県の南西部に住んでいて、最近古代の道について興味を持ちはじめたものです。30年くらい前に上高津の台地上の遺跡を発掘調査していて出土遺物の灰釉陶器の多さは近くを東海道が通っているからかなどと思った覚えがある程度のものです。今は、結城廃寺の発掘調査報告書作成にたずさわっていて、結城廃寺も古代の伝路の通過地点なので興味持ち始めました。突然ですみませんお教えいただければありがたいです。
古代道路造営の渡河点の選択について,河川地形に共通する特徴といえるものありますか.また,渡河の方法、例えば8世紀段階で研究者の方々は、徒で渡る,臨時に浮橋を仕立てる、木製橋を当初は設けているとか、具体的なイメージはどんな感じでしているのでしようか?
結城廃寺近くの伝路といえば、桜川市から古河市まで泊りがけで歩いたことがありましたっけ(遠い目)。さて、8Ⅽの駅路の渡河方法についてのご質問ですが、詳しくは既往の研究に譲るとして、当ブログでは基本は渡渉であり必要ならば渡船、という前提でお話しています。