在宅探索の楽しみ

大和国の古代道路を仮想探索! ⑤古代の港の痕跡と都への道、そして蘇我馬子の影

半島・大陸への窓口となった“古代の国際港”といえば、難波津住吉津(すみのえつ)が知られています。外国使節を迎え入れ、遣隋使・遣唐使が旅立った「シルクロードの日本の玄関」ともいわれています。当然、宮都とも幹線道と舟運で結ばれていました。近江俊秀氏によれば、壬申の乱(672年)のころは、トップの図の通りです。

難波津から東に進まず、一旦南下して遠回りしているのは、古代の大阪平野の特徴的な地形のためです。

さて、本シリーズを読んで頂いている皆さんは、長尾街道、竹内街道が気になったことと思います。横大路から西に進み、朝香津という港津に繋がっています。お馴染みの3D地形図で見ると、住吉津も朝香津も天然の良港であったことが偲ばれます。中央は大和川ですが、宝永年間にここに付け替えられたことで、地形を大きく変えてしまいました。

住吉津・朝香津3D地形図

それにしても、マイナーな朝香津に二本も幹線道が繋がっているのは不思議ですよね? タネを明かしてしまえば周辺は、6世紀前半、絶大な権勢を誇った蘇我氏の拠点の一つでした。

ですから、これらの道は、「推古朝に蘇我大臣馬子の主導により、旧堺港に近い大小路を起点とした、河内・和泉と大和を結ぶ東西道路として敷設されたと想定しうる」(和田萃 2014年「竹内街道と横大路」『明日香風 第129号』)とされています。

ようやく、本シリーズの結論に辿りつきました。「直線道路網は、聖徳太子と蘇我馬子の合作と考えられるが、中心的な役割を果たしたのは蘇我馬子と考えられる」(近江氏前掲書)ということです。

道路に着目することで、教科書とは一味違う古代史が見えてきます。

朝香津から8km

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