古代道路の探し方

【下】痕跡地形から読み解く土浦市中心部の古代東海道ルート ~曾禰駅家はどこに?~

中世鎌倉街道の推定ルートは?

駅路の復元において、中世や近世の街道を参考にすることはよくあります。

今回のエリアにこの手法を適用してみましょう!

地元研究者の皆さんが推定された中世鎌倉街道のルートに、当ブログの駅路推定ルート(青線)を重ねると、下図のようになります。

高橋修・宇留野主税 編 2017年『鎌倉街道中道・下道』より

三本のラインが桜川渡河点付近で、ほぼ一点に収束しているのにお気づきでしょうか

当ブログの「古代桜川分流仮説」を前提にすれば、いずれも古代備前川のほぼ同じ場所を渡河点に選んでいることになります。下図と比較下さい。

ご存じの通り、古代から中世では、浅瀬を歩いて渡る渡渉が基本でした。古代備前川の流路が室町時代までは大きく変化せず、同じような場所を使っていたのでしょう

いさな

苦労して古代の桜川流路を復元した甲斐がありました!😉

なお、余談ですが、室町時代の流路変更(赤点線)以降は、古代桜川が合流して流量が増え、渡河点として不適となったのかもしれません。

結果、砂州上の城下町の発達もあって、近世の水戸街道へと主要道が移ったのではないか?、とイメージしています。

では曾禰駅家はどこに?

最後に曾禰駅家の所在地を推定してみましょう!

地形名称としての「そね」は、「河川氾濫があった場所、またその結果自然堤防が形成された場所などを指す」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)とされます。

古くは「石まじりの瘦せ地」(weblio辞書 歴史民俗用語辞典)という意味も。

いずれにせよイメージされる地形からは、台地上ではなく桜川氾濫原が有力地ということになります。

いさな

稲敷台地上という説もありますが、駅家関連と思われる建物跡が全く見つかっていないんですよね。。。😓

ということで、当ブログとしては下図の通り、二か所の候補地を選びました。

歴史的農業環境閲覧システム (農研機構農業環境研究部門)に加筆

まず、候補地①字「能西寺」周辺です。

前回もご説明しましたが、中世に寺院があったと伝わる場所。

古代桜川南岸の湿田(=沼地)の中に、築堤痕跡のような長細い「林」(60×20m)や、楕円形の「畑」(120×80m)がポッカリと浮かんで見えます。

駅路を踏襲したと見える直線的な小径(約300m)も伸びています。

少し南には、平安末創建と伝わる八幡神社がある上、定説の駅家比定地集落(自然堤防上)もあります。「田」と書かれた乾田も見え、微高地であったのでしょう。

駅家の駅館院はもちろん、駅子集落や倉庫群、駅馬(延喜式では5疋)の牧を配置する土地も確保できたでしょう。

このエリアの現代の地形は下図の通りです。

地理院地図(電子国土web)の地形分類図に加筆

さて、候補地②は、稲敷台地から切通しを下った駅路が北へ進路を変える地点で、氾濫原に突き出した微高地、字「町ノ市」周辺です。

迅速測図にも微高地として地割が描かれています。標高が5m以上もあり、周辺の水田が1-2mですので、相当に土盛りされているようです。

狭く見えますが100×200mのピラミッド状の広がりがあり、駅家の駅館院の設置に問題ありません。南に谷が開けていますから、駅馬のための牧(馬込・馬籠)に好適でしょう。

下図は北から俯瞰したところです。水田跡?との標高差がお分かりになりますか?

古代備前川まで約600mほどありますが、津(河川港)を置いていたとすれば、例の謎の方形地割(30×30m)がその痕跡だったかも?!

あるいは水田を築堤して走っていた駅路の敷地跡そのものかもしれません。

何より忘れてはならないのは、下図の通り、ここが駅路と伝路の交差点であったこと。この伝路は、河内郡から筑波郡、白壁郡、新治郡を経て、東山道との連絡路にも繋がる重要路線でした。

中村太一 1997年「常陸国真壁郡の古代官道」『筑波山陰 真壁周辺の古道』真壁町歴史民俗資料館 より一部拡大

また、字「町ノ市」という地名も魅力的です

古代の交通の要衝には衢(ちまた)という市が立ったことはよく知られていますが(ex.海石榴市衢)、それを彷彿させます。

いさな

「ちまたのいち」が「まちのいち」へ転訛したのだったら面白いですね😊

まとめ

3回シリーズでお送りしてきた「痕跡地形から読み解く土浦市中心部の古代東海道ルート」、お楽しみいただけたでしょうか?

長々とご説明してしまいましたが、駅路と駅家の推定地をまとめると、下図の通りとなります。

歴史的農業環境閲覧システム (農研機構農業環境研究部門)に加筆

ブログ主はある研究者の方から、「歴史地理学的な推定地が案として示されないと、考古学的な発掘調査の対象地が絞れない。車の両輪みたいなものでどちらも大切」と伺ったことがあります。

このエリアでの駅路、駅家の推定は、新たな考古学的発見がないと先に進めない状態です。古代道路ファンに過ぎないブログ主の仮説ではありますが、どこかで何かの役に立てれば幸甚です。

いさな

マニアックな長文にお付き合い頂きありがとうございました!😊

シリーズ終わり 

【主な参考文献】

茨城県教育委員会 2015年「鎌倉街道と中世の道」『茨城県歴史の道調査事業報告書中世編』

茨城県教育委員会 2015年『茨城県歴史の道調査事業報告書古代編 古代東海道と古代の道』

上高津貝塚ふるさと歴史の広場 2013年『古代のみちー常陸を通る東海道駅路ー』

木下良 2009年『事典日本古代の道と駅』

高橋修・宇留野主税 編 2017年『鎌倉街道中道・下道』

島方洸一 企画・編集統括 2012年『地図でみる東日本の古代律令制下の陸海交通・条里・史跡』

土浦市教育委員会 2013年『下高津小学校遺跡 ‐宅地造成に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書‐』

土浦市史編さん委員会 編 1975年『土浦市史』

中村太一 1997年「常陸国真壁郡の古代官道」『筑波山陰 真壁周辺の古道』真壁町歴史民俗資料館

野村康子 1977年「常陸国桜川中・下流域の条里」『歴史地理学会報』第89号

山口恵一郎 等編1972年『日本図示大系関東Ⅱ』

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