弥生時代の環濠集落跡で知られる吉野ヶ里歴史公園は、長らくあこがれの場所でした。今は亡き木下良先生が最初に復元された“記念碑的”駅路である西海道肥前路。それが丘陵部を東西に横断し、公園のど真ん中に切通しが残されているのです。
発掘調査時の姿はこちらのサイト
からご覧下さい。
なお、東側に絵に描いたような直線痕跡がありますが、なぜか走行方向にズレがあります。とても気になりますが、私の方法論では不明です。

そして、意外に知られていませんが、このラインを東に延長した先にも、林の中に切通しが眠っています。鳥ノ隈(とりのくま)遺跡として知られ、側溝心々間距離5.3mの道路遺構が確認されています。

5mメッシュ(標高)データで立体地図化すると全体像が見えてきます。

想定ルートが明確ですから、駅路の痕跡がどのような姿で残るものか、検証するのにもってこいです。ハンディGPSで自分の位置を確認しながら、ルート上を東に歩いてみましょう。
まずは、田圃の中の窪地です。これだけ見ても、駅路が走っていたとは想像しがたいですね。

その先の細長い地割を残す畑地です。これも知っていないと気付かなさそうです。

極めつけは、この不思議なかたちをした小さな田圃?。これまでに、どんな歴史があったのでしょうか?(笑)

こうして見てくると、フィールドワークにおいて、切通しの凹道をねらうことの重要さを改めて感じます。その次が、帯状地割ですが、これはGoogleマップの衛星写真が強い味方となります。
最後に今回の想定ルートをご紹介いたします。
吉野ヶ里遺跡内には前方後円墳状の自然地形があります。
前方部は舌状台地の延長部これは自然地形ですが、南先端部の後円部にあたる場所(謎のエリアとして話題になった)に円形の墳丘墓が築かれています。
現在これが官道によって後円部と前方部が分離された形になっています。
また台地の東側には初期の仏教寺院(辛上廃寺)が台地を破壊する形で建立されています。
当時の政権にとって都合が悪かったのでしょうか。
西海道はこの区間において極めて直線的なルートを通っていたと考えられています。
まさに定規で線を引いたような駅路らしい姿です。
こうした直線性を最優先にした設計のため、結果として遺跡や古墳を破壊することになったのではないでしょうか。