出雲国府のあった松江市の意宇(おう)平野を横断する山陰道痕跡の道路です。空が澄み渡っていますね!
右手の山は、風土記に「神名樋野(なんなびぬ)」と見える茶臼山。5㎞強ほぼまっすぐ西に進むと、最初にご紹介した松本古墳群の遺構に至ります。
古代において山陰道が「正西道(まにしのみち)」と呼ばれていたのも頷けますね。
さて、ここはどこかといいますと、下の地図(案内板より)中央の「十字街推定地」です。「じゅうじのちまた」と読み、風土記にも国府の北にあったと記されています。「ちまた」とは、道の集まる場所や賑やかな場所を意味していました。
国府域では戦後まで、碁盤目のような古代の条理地割がよく残っていました。1947年の米軍写真でこの通りです。
下は1974年撮影の十字街の西500mほどの場所。条理の区画線を復元すると、幅約15mの隙間(青線の間)がはっきりとわかります。これが「条理余剰帯」(道代)です。
山陰道は幅9m(3丈)と分かっていますから、その両脇に3m(1丈)の路側帯を設けていることになります。
国府域編の第一回は古代道路の配置をご紹介するところまでとなりました。
最後に山陰道の東方向をご覧ください。大山がきれいに見えました。