群馬県安中市の町北遺跡(同市安中二丁目、旧安中高校校庭)で、同市としては初めて古代東山道の遺構が見つかりました。
下の古代道路図の中で、野後(のじり)駅と書かれた辺り。上野国では最も西側(碓氷郡)での確認となります。
7月30日に開かれた現地説明会に参加して来ました。
今回は、説明会資料ベースでシンプルに現地報告いたします。
道幅は約10m、幅約70cmの両側溝を備えた典型的な前期駅路が、長さ約80mにわたって確認されました。律令国家最盛期のパワーを感じませんか?
まずは、西から東を見たところ。
南側側溝はこの通り。
逆に東から西を見ると、道路面上の大きな溝が目立ちます。これは側溝(白線で縁取り)ではなく、中世に掘られた溝だそうです。
なお、道路面は後世の削平で失われており、全国の駅路遺構でよく見られる波板状凹凸面は見つかっていません。
奈良時代(8C前半頃)の大型掘立柱建物(梁行3間×桁行9間)が後から建てられており、それまでは道路として機能していたと考えられています。
それぞれの位置関係はこちらをご覧ください。
なお、Google Earthのパソコンソフト版ではブルーシートを被った町北遺跡の姿を航空写真で見ることができます。
県内の類例を参考にすると、7Cの飛鳥時代に整備されたものと見られていますが、詳しい開通時期や廃絶後の移設場所の解明は今後の課題だそうです。
上野国では国府成立(8C前半)後に東山道のルート付け替えがあったと考えられています。後期駅路は、国府経由ということで「国府ルート」と呼ばれており、高崎市内で複数の遺構が確認されています。
「国府ルート」についてお知りになりたい方は、是非、過去記事をご覧ください。
さて、次回からは思いっきり想像を膨らませて参りますよ~。
【メモ】町北遺跡の道路遺構
現地説明会資料からまとめて記載します。
①道幅約10m
②側溝は幅70cm程度。一定間隔で深さが異なる造りで、断面形状もY字、U字など場所によって様々な掘り方。
③8C前半頃に作られた大型掘立柱建物に壊されており、8C前半以前に機能。
➃県内で見つかっている遺構と共通点が多くあり、7Cに整備された東山道駅路の可能性が極めて高い。
つづく