現地レポート

続々・上野国の古代駅路 ②どこまで分かった?古代碓氷郡の姿

駅路と郡衙の古代景観

地方の古代景観というと、国府政庁や国分僧尼寺などの壮麗な瓦葺建物群をイメージされると思いますが、主に奈良時代中期以降のもの。

それ以前の飛鳥時代(天武・持統朝)や奈良時代前半では、なんといってもwide&straightな七道駅路と現代の市役所にあたる「郡家(評家)」の官衙が、律令国家の威光を示していました。

例として、同じ上野国で有名な新田郡家跡の模式図をご覧ください(太田市ホームページより)。官衙と駅路が一体で整備されていることがよく分かりますね!

町北遺跡という新たな”パズルのピース”の発見により、この頃の古代碓氷郡の景観復元が一挙に進みそうです。

本記事のポイントは次の通りです。

本記事のポイント

1.植松・池尻遺跡の南方エリアが碓氷郡家(初期は評家)でほぼ確定か。

2.前期東山道の走行方向は概ね近世中山道と一致。後期東山道も同様か。

碓氷郡家(評家)の位置がほぼ確定?!

町北遺跡の北約300mにある植松・地尻遺跡

碓氷郡家に先行する評家を意味すると思われる「評」と刻書された須恵器蓋(7C後半)や、8Cに機能していた大型掘立柱建物群が見つかっています。

公的施設と推定されながらも郡家と断定する決め手に欠けていました。

安中市埋蔵文化財発掘調査団 2005
『植松・地尻遺跡』

ここで調査報告書にある下図をご覧ください。

中央を東西に走る柱穴群と、その南方の地尻Ⅲ遺跡の大溝(幅5m)を区画施設と考え、遺跡全体の範囲を四角いエリアで推定しています。

そこに町北遺跡の東山道遺構線(青線)と建物群の中心軸(黄線)を書き込んでみました。

安中市埋蔵文化財発掘調査団 2005『植松・地尻遺跡』

第一印象で冒頭の新田郡家跡に似ていると感じますよね! 詳しく見てみると・・・。

四角いエリアが駅路(7C~8C前半まで)にほぼ正対し、逆に現在の街の地割・道路とは方位が異なります。

施設の軸線がほぼ揃えられているということは、駅路と一体で整備されたものと考えて差し支えないでしょう。

そして、7Cの飛鳥時代に前期駅路と一体整備された大型の公的施設とくれば、もはや碓氷郡家(評家)しかありえません。 

寺院であれば仏教関係の遺物が出土しているでしょうし、野後駅家なら道路に面しているはずです。

なお、建物群(8C前半頃)の中心軸(黄色)は、やや四角いエリアの向きとズレている感じがします。

おそらく駅路の付け替えに合わせて、官衙の再配置が行われたのでしょう。後期駅路は前期より10°ほど東へ転向したと予想します。

いずれにせよ、あとは証拠となる政庁や正倉群の発掘確認を待つばかりですね!

東山道は近世中山道がほぼ踏襲か?!

碓氷郡家エリアの東山道はどうやって測量、設計されたのでしょうか?

まず、Google Earthプロの最新画像を使い、町北遺跡の遺構から東山道の走行方向を写し取ります。現地説明会で撮った写真と睨めっこしながら微調整します。

これを地形図に落としたのが下図。可能な限り谷地を避け、原市・安中台地の中心部”背骨”を貫いて走っているのが分かります。以下、「町北ライン」と呼びます。

ラインの西端は郷原の日枝神社付近の丘陵南端、東端は鷹の巣城址や板鼻城跡のある丘陵南端となります。両地点間は約9㎞。

丘陵端部を目標に駅路が設計された例は全国にあります。多くの場合、周辺で走行方向が変わっています。

ご注目頂きたいのは、ほぼ中間地点にある安中5号墳(愛宕神社)で、北側をラインがかすめています。

状況証拠から見ると、この古墳を測量台として東西の丘陵南端を一直線につないだのでしょう。

おそらく複数地点から測量を繰り返し、現地の地形を勘案してこのラインが選ばれたに違いません。直線区間を可能な限り長くとることも重視されたのでしょう。

”机上の空論””ご都合主義”とお叱りを受けそうですが、さらに、明治時代の地図を重ねてみると・・・・。

ご覧の通り、近世中山道とほぼ重なるのです! 中山道が東山道をほぼ踏襲したと見て良いでしょう。

見直しを迫られる九十九川ルート説

古代碓氷郡の東山道ルートを巡っては過去、様々な推定がなされてきました。近年まで有力視されてきたのが下図の点線「推定東山道ルート2」です。

ルート2説は九十九川沿いを進み、同市松井田町国衙というロマンを掻き立てる地籍を通過します。以下、九十九川ルート説と呼びます。

周辺では何度か発掘調査が行われていますが、目立った道路跡や官衙跡は見つかっていません。

安中市埋蔵文化財発掘調査団 2005『植松・地尻遺跡』

九十九川ルート説の最大のポイントは、碓氷川を避け合流点手前で九十九川を渡っていることでしょう。

しかし、下図の通り、少なくとも中世から近世まで、街道の碓氷川渡河点はほぼ変わっていないと見られています。町北ライン(青線)を重ねると、これもまた同じポイントを通過します。

安中市埋蔵文化財発掘調査団 1999『中宿在家II遺跡』

町北遺跡で見つかったのは前期駅路だけですから、他地域と同様、後期駅路へ付け替えられたのは間違いありません。

しかし、原市・安中台地では大きな幅の道路の好適地や渡河点は限られており、結局は、同じようなルートが選ばれ中近世の街道に踏襲されたのではないでしょうか?

下の図のオレンジ線が近世中山道です。8C前半以降の景観がイメージできませんか?

古代碓氷郡の景観復元を巡っては様々な試行錯誤が繰り返されてきましたが、町北遺跡の発見によって一気に前進することになりそうです。

いさな

調査関係者の皆様、勝手な推論を展開いたしましてごめんなさい!🙇 

つづく

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA