「水戸黄門」の印籠、「遠山の金さん」の桜吹雪、それが、古道探索における凹道です(笑)。
古道ルートを巡っても、アスファルトの道ばかりでは、ゲンナリです。
ということで今回は、凹道をクローズアップ! 最初はここです。
②で取り上げた狭山・所沢市境から3kmほど北方で、青色二重線が武蔵路の想定ルート
です。
この辺りでは、鎌倉街道堀兼道も、同様のルートをゆるやかに蛇行しつつ走っていたようです。
不老川の氾濫原から台地に上がる部分に、帯状窪地が見えます。
武蔵路から西に約30mずれていいるのが気になりますが、とりあえず現地へ。
やぶ蚊の猛攻を受けつ林の中を進み、なんとかたどり着きました。
藪に埋もれていて全体を見渡しにくいのですが、横断面は線で示した通りのカーブを描いています。
木本さんの前掲書では、上幅が12・5mあるそのサイズから、鎌倉街道ではなく駅路の痕跡ではないかとされています。
ですが、なんだか、こじんまりとした佇まいで底幅も狭く、どちらかと言えば鎌倉街道のような・・・。
試しに、常陸国の伝路跡と比べてみてください。
発掘調査してみなければ分かりませんが、やはり堀兼道の切通し痕跡ではないでしょうか?
武蔵路の方は、整備が行われなくなった後、消滅してしまったのかもしれません。
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気を取り直して次の場所へ。
実はこの北側の武蔵路ルート上に、直線的な現道が通っており、前掲書で駅路痕跡とされる場所があります。
これは期待できそうです。現地を訪れてみると・・・。
舗装されてしまっていますが、これは切通し痕跡で間違いないでしょう!
左法面のゆるやかな傾斜を見ると、元々の横断面が広く浅いお椀状であったと想像できます。
地形の見えるGoogleストリートビューで、反対側からもどうぞ。
広島県東広島市の山陽道痕跡を思い出しました(行ったことないですけどね!)。
「幅4mほどの現在道の北側に、幅約5mの細長い空き地が残っている。しかも、空き地の北側は一段高くなっており、切通だったことも推測されよう」(中村太一 2000年『日本の古代道路を探す』)
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古代道路が明瞭な痕跡を残している場合、中世・近世にも使い続けられた結果であることが多いそうです。
武蔵路は東山道から外れた後、南北を繋ぐ幹線道として役割が鎌倉街道へと移っていったと考えられています。
そのためか、都市部でなくても、凹道など痕跡は地表にあまり残存していません。
狭山・所沢市境のケースは例外的です。
特に北部は、南部ほど発掘調査が進んでおらず、ルートの確認はまだまだです。
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さて、最後に、未踏査で気になっている場所をご紹介します。
東松山市の五領沼周辺で、台地への切り込みについて、前掲書でも切通し痕跡の可能性を指摘しています。
空振りになるかもしれませんが、いつか現地を訪れたいと思います。
3D地図に見える微地形や専門書のヒントで想像を膨らますのも楽しいのですが、美しい凹道に出会ったときの高揚感にはとてもかないません(笑)。