勢多駅家と考えられている堂ノ上遺跡から東に500mほど進むと、また小丘陵にぶつかりますが、そこに中路遺跡(ちゅうろいせき)があります。
瓦葺礎石建物二棟が検出され、国府関連の施設と見られています。
実はここでも駅路の遺構が見つかっています。
丘陵にかかる位置にトレンチを入れたところ、急傾斜地ながら側溝間11~12mの遺構が検出されました。
地形にかかわらず直進するwide&straightな計画道路の姿はまさに前期駅路ですね。
米軍航空写真で確認したところ、かなり明瞭に痕跡地形が映っていました。
さて、いよいよ国庁が近づいてきましたが、その真南の青江遺跡では驚くべきものが見つかっています。
築地塀間が幅24m、道路幅が20mもある南北道、推定朱雀路です。オレンジ色で示しました。
南北に並行する二つの築地塀が見つかり、この間に遺跡がなく、さらに国庁との間の谷部に両者をつなぐ道路を造成した痕跡があることが根拠となっています。
この幅は、宮都の朱雀大路と比べると、藤原京に近い規模(写真ご参照)となります。
東山道と推定朱雀路の位置関係は次のように推定されています。
(平井美典『藤原仲麻呂がつくった壮麗な国庁・近江国府』新泉社 2010年)
これをKashmir3Dで立体地図化するとこの通りで、駅路痕跡の地割が明瞭に残っています。
では、現地を歩いてみましょう。日没直前に訪れたため黄昏た雰囲気なのはご勘弁!
まずは推定朱雀路上から見た東への分岐点。手前の民家から後方が駅路上にあたります。
次に、突き当り北に転進した先の畑。帯状窪地となっており、これも痕跡地形でしょう。
振り返って見るとこんな感じ。
さらに、北に進んだところ。
西に転進すると駅路ルートが現道となって残っています。
突き当りで北に転進します。
その先には細い現道がひたすら真っ直ぐに伸びています。これもほぼ、駅路ルートに沿っています。
最後に、国庁を覗いてみましょう。政庁の両脇に西郭、東郭が並ぶ、他国に類例のないゴージャスな構造です。
まずは、政庁後殿周辺。案内板が建っています。
東郭には、特徴的な施設である木造外装基壇が見つかっています。上には瓦葺の大型建物が建てられていたと考えられています。
他の政庁建物が瓦積み外装としているのに対し、わざわざ耐久性に劣る木材を使っていることから、豪華な彫刻などの贅を凝らしたものではなかったか、と想像されています。
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以上見てきたように、近江国府域の施設の在り様は、東山道からの視覚効果を意識し、意匠を凝らしたものであるのは間違いありません。
建造時(8世紀中ごろ)に国守であった藤原仲麻呂が、自らの権威の発揚のために仕組んだ演出ではないか、とお考えの研究者もおられます。
私もそう思います(笑)。
ご興味のある方は、今回参考にさせて頂いた本、平井美典『藤原仲麻呂がつくった壮麗な国庁・近江国府』2010年 をお読み下さい。
では、これまで。