出羽は古代においては「いでは」と読まれ、”出端”という意味であったと考えられています。
陸奥が「みちのおく」と読まれ、東海道・東山道の奥を意味していたように、宮都から見ると最果ての地であったのでしょう。
シリーズ最終回はその中でも最北部の城柵を取り上げます。(下図は、秋田城跡歴史資料館『秋麻呂くん通信』2017年より)
版図拡大を目的に行われた最初の計画的征夷は、和銅元年
(708)のことですが、この出羽国を新設するためのものでした。
元明天皇は前年、平城遷都を発すると同時に越後国に
出羽郡を設置。蝦夷の居住地であった庄内平野に出羽柵を置きました。
天皇の権威を高めるための「征夷と造都」という、律令国家の基底をなす政策がここでも前面に表れてきます。
出羽国が置かれたのは、平城遷都から2年後の和銅5年(712)です。
◆
その後、陸奥国では養老4年(720)に蝦夷の大規模反乱が起きますが、出羽国はある程度の安定化に成功していたようです。天平5年(733)に出羽柵を庄内から秋田村高清水岡まで約100㎞も一挙に北進させます。後に秋田城と改称されました。
天平9年(737)には按察使大野東人が、多賀城から出羽柵までの奥羽連絡路の建設に着手します。ただし、全通は20年後、途中に雄勝城が完成する天平宝字3年(759)のこととなりました。
この間、天然痘の流行で社会の疲弊が著しく、大仏や国分寺の建立に国力を費やし版図拡大を行い得なかったと考えられています。
◆
桓武天皇の時代になって、延暦20年(801)の征夷大将軍坂上田村麻呂による陸奥国での第三次征討の翌年以降、胆沢城や志波城が築かれます。この頃に出羽国にも払田柵が設置されています。
払田柵は雄勝城が北進したものとも言われ、その規模の大きさからも、この当時まではさらなる北方への版図拡大が企図されていたことを窺わせます。
◆
秋田城はその位置から、中国東北部にあった渤海国との窓口の役割も担っていました。8Cの使節の13回中6回が出羽国に来着している記録があるそうです。
当時としては全国に類例のない水洗トイレ遺構が発見されています。豚食を食習慣としていないと感染しない寄生虫の卵も検出されているそうで、渤海使が使用した可能性が高いとされています。
また、出土した漆紙文書などから一時、国府が置かれていたと考えられるようになってきています。
◆
またしても、前ぶり長すぎですみません(笑)。
ここからは写真と図だけでとばします!
まずは、秋田城の概略から。(秋田城跡歴史資料館『秋麻呂くん通信』2017年より)
GoogleEarthで全景をどうぞ。
東門から政庁。
水洗トイレはこの小屋です。
では、現地を歩いてみましょう。一番絵になるのは、やはり東門でした。これは内側から。桜吹雪が舞っています。
門外から見たところ。
この池で様々な宴や儀式が催されたそうです。
これが目玉の水洗トイレです。
中は三つの個室に分かれています。扉がないですが、雰囲気は現代の山小屋のようでした。
個室の中はこの通り。どう使うかはご想像下さい(笑)。
◆
最後に払田柵です。
概略はこの通り。(仙北町教育委員会『史跡払田柵』1999年より)
現地を歩いてみましょう。外柵南門です。
外柵内を川が流れていたようです。
橋の向こうに見えるのは外郭南門の石塁です。
この石塁の下部は発掘時のままだそうです。
階段を上り、正面から政庁域を見たところです。
振り返ってみると、城域の広大さに圧倒されます。
外郭北門も一部復元されています。
政庁域の西から見下ろしたところ。
外郭西門も一部復元されています。
払田柵の外柵ラインが道路上に青線で表示されています。真っすぐ先は外郭南門につながっています。
以上で、古代城柵巡りは終了です。
長文にお付き合い頂きありがとうございました。