律令国家の東北経営と下野薬師寺
下野薬師寺は、天武天皇の発願で、飛鳥時代の7C末に造営が始まりました。創建当初から東国10か国の東方守護を目的とし、奈良時代初めには官寺となりました。(須田勉 2012『古代東国仏教の中心寺院 下野薬師寺』)
”官寺昇格”の背景の一つと考えられているのが、律令国家の東北経営(蝦夷征討)との関連です。
養老四年(720)の蝦夷による按察使上毛野朝臣広人の殺害とその後の反乱鎮圧を契機とし、律令国家は関東諸国を動員し征夷支援にあたらせました。
その中で、仏教面での東国における鎮護国家の要として当寺が選ばれたとされています。
なお、当時の僧侶は”国家資格”で、「戒壇」が設けられた当寺と奈良の東大寺、筑紫の観世音寺で修行し受戒する定めとなっていました。当寺はまさに古代東国仏教の中心でした。
初期東山道へと伸びる薬師寺参道
これまでの発掘調査によって寺域はほぼ解明されています。ただし、伽藍配置は、2004年調査までは下の復元模型のように中央に金堂があったと考えられていましたが、、、、
その後、創建期の塔が建っていたことが分かりました。
ここでご注目頂きたいのが伽藍建物の中心軸。正方位ではなく、東へ2°ほどわずかに傾いています。
そして、南門が見つかった場所から、2°傾いて南下する道が存在するのです! 参道の名残と考えられます。
この参道は現道と比較して見ると、どうやら700mほど辿ることが出来そうです。
また、下の微地形図を見ると浅い谷を縦断していて、最低部では土盛りをして平らな道路面を作っているのが分かります。等高線は50cm間隔です。
そして、左下から上ってきた青線とぶつかります。当ブログが初期東山道と考える、北台遺跡の延長ラインです。
この延長ライン上にはうねりながらも、ほぼ重なる古道がかつて存在しました。米軍航空写真でご確認下さい。
駅路と進入路で結ばれる国府や国分僧尼寺はよくありますが、下野薬師寺も同様の配置になっていたと想像できます。
初期東山道はこの先どこへ?
さて問題は、合流点の後、駅路がどちらへ向かったか、です。
まず、北はどうでしょう? 下の微地形図で見る通り、南北に細長い台地上いっぱいに寺域が広がっており、駅路のような幅広い道を通す余裕はなさそうです。
実際、これまでの発掘調査で道路痕跡は見つかっていません。
では、東はどうでしょう? 下の米軍航空写真では”北台ライン”上に直線地割は存在しません。明治地図でも同様です。
赤丸から東にかけては条理地割が比較的明瞭で、駅路が通っていたら斜行地割が残っているはずです。
最後に、北東はどうでしょうか? 台地辺縁から伸びた道が、断続的ではありますが一直線上にのってきます!
しかも、明治地図で見ると、田川を渡った先で、南北に走る直線道路に合流できます。
そして、この直線道路、北北東方向へ約15㎞も続いているのです。途中1.5㎞は行政界。
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以上により、当ブログでは、下野薬師寺エリアでの初期東山道ルートとして、下図のような仮説を唱えるものであります!
なお、新4号国道(茨城西部・宇都宮広域連絡道路/石橋宇都宮バイパス)が平行して走っています。
高速道路やバイパスなどの広域道路が駅路と重なることはよくあります。
薬師寺八幡宮参道は駅路痕跡か?!
となると気になるのは、駅路がクランクしている部分の直線道路。向かって右側は一見、土塁のように見えますが・・・
微地形地図を見ると、元々は切通し(オープンカット)構造のようです。道路右の住宅は地面を掘り込んで建てられています。
中央が窪んだ台地縁辺部に可能な限り平坦な直線道路を通すため、低地では盛土し、北部では切通しにしていると思われます。かなりの大規模工事だったでしょう。
近現代に舗装道路化した際に工事したのではないか?、と疑われる方もおられるでしょう。しかし、杉並木の位置から深く掘り込んだ様子はありません。
なにより、道路脇の法面の緩やかさ! いわゆる安定勾配ですから、古代の道がそのまま残っていたとしても不思議ではありません。
下の図は、茨城県笠間市の五万堀古道遺跡で見つかった東海道遺構です。地形の高い部分はオープンカット(切通し)とし低地は盛土をして、路面の高低差を少なくしていることが分かっています。
台地際に無理やり道路を通しているところが似ていますよね?😊
なお、迅速測図では交差点より南は道が描かれていません。「柗(松)」とありますので、駅路廃道後、松林となっていたようです。
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さて、この直線道路、実は薬師寺八幡宮本殿へ至る参道でもあります。
薬師寺八幡宮は、奈良・平安時代に石清水八幡宮/宇佐神宮から勧請されたと伝えられる古社。
しかも、源頼義・義家親子が前九年の役で立ち寄り・・・という駅路近くの定型的な伝説も残っています。関東と東北の往還路と認識されていたということですね。
なお、地面には布目瓦や土師器などが散布していて、”古代濃度”の高さを感じさせます。
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以上により、舗装路の幅6m+西側路肩1m=7m幅のこの現道。駅路痕跡である可能性は高いと考えます。
薬師寺エリアへもう一本の駅路が
忘れてならないのが、『常陸国風土記』に見える下野・常陸連絡駅路の存在です。東山道と東海道を接続する重要ルートであり、常陸国が東山道所属であったときの支路とも言われています。
ルートについては未詳ながら、唯一の手掛かりである直線国境(右下)を真っすぐ西に延長すると、下図の通りとなりました。
この間約12㎞。途中、鬼怒川を渡る辺りで走行方向が微調整されているかもしれませんが、いずれにせよ例の”薬師寺クランク”を横切りそうです。
1961年航空写真で見ても、連絡路を踏襲したと思しき古道が見えます。
微地形地図に連絡路を書き足してみると、駅路交差点が浮かび上がってきます。
連絡路が台地に登るために切通し坂とせざるを得ず、クランク部の中央が低くなる構造となったようですね。
なお、近くの道の駅しもつけの展望台に上ったところ、筑波山(右奥の双耳峰)がビックリするほど近くに見えました。常陸国との距離の近さを改めて実感しました。
連絡路については過去記事をご覧ください。
郡家経由ルートはどこに?!
那須郡周辺では8C半ば頃に初期の直線ルートから郡家経由ルートへの駅路の付け替えがあったと、当ブログでは推定しています。
東北経営(蝦夷征討)の本格化で、前線への物資集積・輸送の拠点として郡家の重要性が増したため、と考えています。
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さて、下野薬師寺エリアは古代河内郡となりますが、郡家の候補地は多功遺跡と上神主・茂原官衙遺跡の二ヵ所があります。
上神主・茂原官衙遺跡では駅路遺構が見つかっていますので、これを南へ延長すると定説の東山道ルートとなり薬師寺西の細い丘陵を下ることになります。
ただし、途中、直線古道や地割、帯状窪地などの痕跡が全くみつからず、ブログ主は自信ありません。。。
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それより、郡家経由で最短距離を進むのであれば、国庁&都賀郡家から河内郡家へ直行すべきです。下図の黄色線のイメージ。
ところが、またまた、現実には明瞭な古道も地割も見つかりません。
考えられる可能性は二つ。
①郡家直行ルート(黄線)は存在したが、廃道となった後、後世の交通網に組み込まれず消滅した。
②郡家経由ルート(青点線)といえども薬師寺と連絡路を無視できず、逆くの字のラインで折衷案を選んだ。
ブログ主は時代変化の中で両方ありうると考えています。
まず、律令国家の征夷事業が本格化していた奈良時代までは②の郡家経由ルート。
次に、征夷事業が落ち着き、薬師寺も衰退期に入る平安時代には①の郡家直達ルート。
というように想像しています。
ただ、後世になって鎌倉・江戸が政治経済の中心となると、現在の国道4号線や東北本線のルートが重要となり、東山道ルートが埋もれていったのではないでしょうか?
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実際、北台遺跡も地表には全く痕跡が残っていませんでした。
最後に
下野国の東山道は、飛鳥時代から奈良・平安時代まで、整備から廃絶まで、同じルートで使い続けられた、というのが現在の定説です。
一方、お隣の上野国ではダイナミックな時代変遷が明らかになっています。
開発による発掘調査の進展という偶然の要素もあろうかと思いますが、当地でも時代変遷を考慮した新旧ルートの復元作業に着手してはいかがでしょうか?
当ブログでのルート復元の試みも、半可通な素人のアイディアではありますが、何かの参考になれば幸いです。
終わり