八岐大蛇(やまたのおろち)といえば、スサノオノミコトの登場する出雲国の神話としてご存じない方はいないでしょう。
様々な解釈がなされて来ましたが、氾濫を繰り返すことで古くから恐れられてきた斐伊川を象徴しているのではないか、という説があります。(出雲観光協会ホームページなど)
深入りは避けますが、この説を念頭に置くと、とても気になる伝説が鎌倉・藤沢地域に残っています。
これも深入りは避けますが(笑)、興味深いのが竜の描写です。写真は五頭龍大神を祀る龍口明神社旧地です。
「千四百年も遠いむかしになろうか。そのころ鎌倉の深沢に、まわりが四十里という湖があり、主の五頭竜がすんでいた。悪い龍でな。山くずれや洪水を起こし、田畑を埋めたり押し流したりして、村人をくるしめておった」(神奈川県教育庁文化保護課『かながわのむかしばなし50選』1983年)
現在の鎌倉市西部の深沢エリア(旧・深沢村)は、柏尾川左岸に位置し工場や住宅が立ち並んでいます。
とても大きな湖があったとは想像できませんが、古代の地形を復元するとこのようになっていたそうです。大きく蛇行する柏尾川と河跡湖が見えます。
柏尾川は、1907年に始まった耕地整理事業まで、複雑に蛇行を繰り返し、連続した堤防も持たず、氾濫を繰り返す暴れ川でした。(松田磐余「水害の変遷と浸水危険地域地図」『総合都市研究第35号』1988年)
そして、ここを直線的に横断する赤線が、木下良氏説の古代東海道ルート(771年以前)です。長谷から大仏切通を越え、常盤、梶原を経て西進し、このルートに至っています。
しかし、この復元図を信じる限り、例え築堤して強引に敷設したとしても、安定的に駅路を維持できるような地形ではありません。
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もう一つ気になるのが、条理地割の痕跡です。1961年航空写真と明治地図上に地割線を落としてみました。
洪水でかく乱されているはずですが、かなり明瞭に方格地割が残っています。ところが、定説ルートの青線も含め、どこにも条理余剰帯(道代)がないのです。
12世紀に条理が敷かれた地域もあるそうですから、断定的なことは言えませんが、明治以降の地形からは駅路の痕跡は読み取れません。
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河川氾濫原に邪魔されて内陸を通れなければ、海岸部を選ぶしかありません。近世の街道を参考に3D地図へ想定ルートを落としてみました。
台風の進路予想図のように円が破線で描かれていますが、ここが本ルートの最大のネックです。迅速測図で拡大してみてみましょう。
鎌倉七口の一つとして有名な極楽寺切通が見えます。ところが、開削されたのは極楽寺開山の忍性が鎌倉入りした後、13世紀後半と考えられています。
切通開削以前に稲村ケ崎に主要な交通路があったことは、『吾妻鏡』『梅松論』『海道記』の数々の記載から明確です。京都と府内を結ぶ幹線道「京鎌倉往還」も当然ながらここを通っています。
またまた深入りは避けますが(笑)、専門家の間では、失われた“幻の道”「稲村路」が海岸沿いの崖上にあったと想定されています。(伊藤一美「鎌倉の古道といわゆる「七口」について」『城郭史研究30号』2011年など)
現在では、周辺は大きく改変され、当時の姿を偲ぶのは困難です。
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さて、木下良氏が打ち立てた歴史地理学による古代駅路復元において、「立石」という地名が有力な手掛かりとなっていたことはご存知でしょうか?
渡渉可能地点の目印として、実際に岩が置かれていたらしいことが分かっており、その遺称地名と考えられています。
繰り返し深入りは避けますが(笑)、藤沢市に二か所ある「立石」地名のうち、一つがここにありました。
『新編相模国風土記稿』の片瀬村の項で「立石谷」が見えます。
境川/片瀬川はたびたび流路を変えていたようですが、ある時期、駅路の渡河点が周辺にあったのかもしれませんね。
蛇足を承知で、もう一つ! この北側に「大道東」という地名があります。
中世の街道周辺でもよく見られる地名ですが、古代駅路の遺称地名であることもあります。
さらにいえば、三浦半島の古代駅路を推定したときに、以前の記事で「推定藤沢駅」比定地とした近世の藤沢宿へも想定ルートは続いています。
というように、連想推理ゲームは際限なく続くという悪い傾向があります(苦笑)。
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江の島は10回以上訪れていますが、そこら中で見かける竜神像が、深沢出身だとは気づきませんでした。
おそらく伝説は、たくさんの支流を集め氾濫を繰り返す暴れ川の記憶をベースに作り上げられたものなのでしょう。
「腰越」の地名の由来が「子死越/恋」であるとの伝承もあるそうで、これが、八岐大蛇伝説のクシナダヒメの話を思い出させ、今回の仮説につながりました。
以上、鎌倉市西方の古代東海道ルートについて、本ブログとしての最終結論とさせて頂きます。